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邪馬台国問題と三角縁神獣鏡について(-1) 魏志倭人伝と記紀の紀年について
邪馬台国問題と三角縁神獣鏡について()
 魏志倭人伝と記紀の紀年について(1)

 はじめに
 私の邪馬台国研究は、もちろん邪馬台国の所在地の研究なのですが、本来の目的はその結果によって、私が古事記の崩年干支や日本書紀の月朔干支によって復元した崇神天皇から推古天皇までの紀年の正しさを証明することにあります。従って、本稿ではその問題も含めて記していきます。なお、本稿では魏志倭人伝にある、邪馬壹國を邪馬台国、壹與を台与と記します。

 崇神天皇から推古天皇までの復元紀年と魏志倭人伝、
 私は、以前「文献史学と文字学(8)・(9)『日本書紀』の紀年の実年代と倭の五王(1)・(2)」という論文を書いたことがあります(カテゴリー、源辿の過去の著作、参照)。その論文は崇神天皇から推古天皇までの古事記の紀年と日本書紀の紀年を、古事記の紀年は古事記の崩年干支で、日本書紀の紀年は日本書紀の月朔干支で復元したもの(但し、両紀年は六年の差がある)の応神天皇以降を宋書の倭の五王の年次によって実証しようとしたものです。その論文に記した復元紀年には孝元天皇の崩年から記しています。それが下記写真の紀年です。
 但し、古事記の崩年干支は開化天皇以前の天皇には記されていないため崇神天皇の即位年は記していませんが、写真には付加しています。また開化天皇の在位年数は60年(干支一運)だったため0としていましたが、写真では60年に戻してあります。


この写真の年次は、仮に卑彌呼が倭迹迹日百襲姫、台与が豊鍬入姫と仮定すると、ほとんど魏志倭人伝の年次と一致します。例えば、日本書紀の崇神紀六年「崇神天皇即位六年、是より先に、天照大神を以ては、豊鍬入姫命に託して倭の笠縫邑に祭る。仍って神籬を立つ」とあります。日本書紀の復元紀年では崇神天皇の即位年は245年でその六年は250年になります。一方魏志倭人伝の台与の即位年は魏の郡使政等が到着(正始八年〈247年〉後半)と思われ、その後いったん卑彌呼の死後「更に立つ男王立つ、檄を為して之を告喩する。国中服さず。復、卑彌呼の宗女壹與十三を立て、国中遂に定まる。政等、檄を以て壹與を告喩する」から見て、249年後半から250年になり、まったく一致しています。なお、古事記の復元紀年では崇神天皇の即位年は251年ですので豊鍬入姫が神籬を立てたのは256年ということになりますが、これには事情があって、古事記の紀年は継体・安閑・宣化朝と欽明朝の重複年次六年を除き継体天皇の在位年数を22年としたのに対し、日本書紀の紀年はその六年を除かず継体天皇の在位年数を28年としたためです。従って、日本書紀の復元年次は一貫して六年繰り上がっています。言いかえれば、古事記の復元年次では豊鍬入姫が神籬を立てたのは250年で、崇神天皇の即位の前年になります。なお、本稿では日本書紀の復元年次は六年繰り上がっているので基本的には六年繰り下げて用います・
次に、卑彌呼の即位年ですが、魏志倭人伝には「その国、本また男子を王となし住まること七、八十年、倭国乱れ相攻伐すること暦年、乃ち共に一女子を立てて王となす。年已に長大なるも夫婿なく男弟あり佐すけて国を治」とあり、この倭国大乱を後漢書は桓・霊の間(147~188年)としています。一方、卑弥呼の崩年は正始四年(243)から正始八年(247)の間ですから、壹與とおなじく十三歳ぐらいで即位していたら「年已に長大」より七十歳まで生きていたとしたら即位年は186~190年になります。それに対し、日本書紀の復元年次では孝元天皇の崩年は187年(月朔干支では184年但し六年下げると190年)で、倭迹迹日百襲姫は孝元天皇の異母妹で母は意富夜麻登玖邇阿禮比賣、つまり、孝元天皇(本また男子を王となし)の死によって倭国大乱が終わり、卑彌呼(倭迹迹日百襲姫)が擁立されたとすればほとんど魏志倭人伝の内容と一致します。なお、孝元天皇を含む綏靖天皇から開化天皇の八代は欠史八代の天皇とされその実在性が疑われています。そのような天皇である孝元天皇の月朔干支を信用してよいものかどうかの問題はありますが、結論から言うとこの八代は天皇ではありませんが実在性の強い人物です。本論文としては蛇足になりますが、そのために欠史八代の系譜が作られた経緯について、まず述べていきます。

綏靖天皇以下欠史八代と記紀の成立事情
古事記はその序文によればその元資料となったのは、稗田阿礼が誦むところの天武朝の勅語の帝皇日繼と先代旧辞です。そして、おそらく日本書紀の元資料もそれに近いものと思われます。そして、その勅語の帝皇日繼(帝紀)には綏靖天皇以下開化天皇までの欠史八代は記されていなかったと思われます。その理由は、まず、この欠史八代には旧辞がないこと、次に、日本書紀にこの八代の系譜には八人中六人に一書に云うなどの別書があること、つまり、勅語の帝紀に別書があるわけはありません。ではこれが全く架空の存在かというと、架空の存在には一書などの別伝など存在するはずはありません。では、欠史八代の系譜はどのように作られたのか。まず、欠史八代にある一書や一云うなどを古事記、神代紀・神武紀・崇神紀以降と比較しますと、古事記にはこのような別伝はありません。それは古事記が天武朝の帝紀・旧辞として記されているので当然のことです。また、神武紀には「高尾張邑、或る本に云う葛城村という」という記事はありますが、一書云や一云うのような系譜に関するものはありません。また、崇神紀以降推古朝までにもありません。神代紀には、一書云う・一云うなどは頻繁に出てきますが、それには系譜を記したものもありますが必ず神話を伴っています。それに対し欠史八代のものは系譜のみで、しかも磯城・十市・春日の県主の系譜に限られています。ただ孝元天皇と開化天皇には一書云う・一云うなどの記事はありません。そして、欠史八代の最初の天皇は綏靖天皇ですが、その和風諡号は神渟名川耳です。普通、神名を記すときは〇〇神と書きます。綏靖天皇の弟神八井耳を除いて、神〇〇と書くのは、神日本磐余彦(神武天皇)です(注参照)。この神武天皇は神代から人代を繋ぐ日本全体を治める和朝廷の最初の天皇「始馭天下之天皇」です。この「始馭天下」の天下は崇神朝の支配する国の大和朝廷の国より広い国を指しており、記紀の記された頃の大和朝廷の認識国家範囲を指しています。それに対し、綏靖天皇は、「所知初國御眞木天皇(崇神天皇)」に神代から人代の欠史八代を経て繋ぐ崇神朝の始祖なのです。逆に言えば、崇神天皇に始まる初期大和王朝(初国の朝廷)の前身の邪馬台国の王の男系譜なのです。その系譜は崇神天皇の父開化天皇やその后・皇子・皇女、またその祖父孝元天皇の兄弟程度は伝わっていたものの、曽祖父孝霊天皇の頃のことは伝わらず、その子孫である磯城県主・十市県主・春日県主の系譜などによって推定して欠史八代を記したものと思われる。従って、欠史八代はもちろん天皇ではなく、卑彌呼の即位などを見ると王位についたかも不確かです。ただ、これらの系譜は架空とは言えません。またすべてが正しいとも言えないのも現実です。ただ、孝元天皇と開化天皇に一書や一云うという記事がないことからその内容が意図的に改変されていない限り、ある程度の真実性はあると思われます。つまり、「所知初國御眞木天皇(崇神天皇)」の系譜は父母とその親族その兄弟及び祖父程度のことは元明朝頃までは伝わっていたということです。また、綏靖天皇には神話もあったでしょうが、それはおそらく神代紀に移されたと思います。なお、この欠史八代の時代は祭祀中心の姫彦制から男性中心の王権政治に至る過渡期で、その過程で大乱が起こり、銅鐸銅剣は破棄され、魏の明帝から送られた倭王権を象徴する鏡・刀(剣)・玉の三種の神器の時代に移っていったと思われます。

注)神〇〇という人や神は、神産巣日神、神阿多都比売、倭迹迹速神浅茅原目妙姫などありますが、崇神紀七年二月条に「天皇乃ち神浅茅原に幸して、卜問う。是の時に神明倭迹迹日百襲姫命に〈大物主神〉憑りて・・・」とあり、神〇〇の神は、人名や神名に繋るのではなく神と交わる神聖な場所に繋っていると思われます。つまり、神〇〇までが神代、神〇〇以降が人代となります。なお、ここでは蛇足になりますが、神阿多都比売以前が神代で神阿多都比売以降が人代なら神武天皇と同名の彦火火出見尊がもともと神武天皇で日向二代は存在しないことになり、神武天皇磐余即位以前は神代で即位以後が人代なら神武東征は応神天皇即位前紀、つまり、息長帯姫(神功皇后)伝承から移動させられたものとなります。そして、すでに記してきた崇神朝との関係が矛盾のないものになります。

 魏志倭人伝の暦年表と復元年次による記紀内容の暦年表。
 ここに記す暦年表は復元紀年が正しく卑彌呼が倭迹迹日百襲姫、台与が豊鍬入姫という前提に立っています。ただ、復元紀年が正しく卑彌呼が倭迹迹日百襲姫、台与が豊鍬入姫という関係は裏腹の関係にあって、復元紀年が正しければ卑彌呼が倭迹迹日百襲姫、台与が豊鍬入姫といえ、その逆も同じですが、復元紀年が正しいとも卑彌呼が倭迹迹日百襲姫、台与が豊鍬入姫であるとも実証されているわけではありません。従って一つの仮定の暦年表に過ぎません。またこの暦年表では崇神天皇の即位前に卑彌呼(倭迹迹日百襲姫)は死んでいたことになりますが、日本書紀には崇神天皇の即位後も倭迹迹日百襲姫が生きていたと思われる記述もあります。しかし、そのような重箱の底をつついたような議論は重箱の全体像を見た上で議論すべき問題で、その議論の結果全体像が正しく重箱の底が間違っていれば重箱の底を、重箱の底が正しければ重箱全体を修正すればいいだけの問題です。ただ重箱の全体像をある程度仮定しなければ、重箱の底の議論は成り立ちません。従って、ここに記す暦年表はあくまで重箱の底を議論するためのたたきだいのようなもので、一つの仮定に過ぎません。そして、細かい議論は魏志倭人伝と記紀の紀年について(2)以降で記します。従って、ここでは大雑把に記していきます。なお、この暦年表には、邪馬台国問題と三角縁神獣鏡について()(供砲筺吻掘砲悩まで述べてきた内容のみならず、今後魏志倭人伝と記紀の紀年について(2)以降でしるす内容も盛り込んでいます。

魏志倭人伝の暦年と復元年次による記紀及び考古学等の暦年表
西暦  魏志倭人伝         記紀の記述等     考古学的知見等
100頃 男王、住まること70~80年   考安天皇     この頃銅鐸最盛期
    倭国大乱            ↓      この頃祭祀政治から
                   孝元天皇    王権政治への
過渡期始まる
                   孝元崩(187)→開化 姫彦制崩れる
190頃 卑弥呼立つ          百襲姫即位(187頃)この頃銅鐸が消滅
     男弟王あり助けて国を治める           姫彦制が復活
    大乱終わる                    王は祭祀女王も
238  卑彌呼、魏に遣使                  政治は男王
 12月魏の明帝卑彌呼を親魏倭王とする          祭・権、分離す
240  魏の郡使倭に来る
     詔書・印綬・鏡・采物等賜う
    倭王遣使、詔恩に答謝            三角縁神獣鏡の
243  倭王魏に遣使                  倣製鏡の鋳造始まる
244頃 倭王卑彌呼遣使
     狗奴国との戦いを告げる
245  魏、倭王に送る黄幢を郡に付す
246頃  卑彌呼死す(墓を作る)  この頃百襲姫死ぬ?

     男王立つ
247  魏の帯方郡太守の帯方の官に到る
    太守、郡使政等を倭に派遣 ・ ・
 後半 政等倭に至る
    詔書・黄幢を倭の難升米に仮拝す
    激を為し之(男王)を告喩する
     倭の国中服せず
248頃 復、卑彌呼の宗女壹與を立てる
250頃  国中遂に定まる、         
    大いに墓を作る径百餘歩  豊鍬入姫堅神を立てる(250)箸墓できる
    政等激を為し壹與を告喩する            古墳時代始まる
251頃 壹與政等の還るのを送らす
・・・・・・・・・・・・・・・ 崇神天皇即位(251) 備前
・・・・・・・・・・・・・・・・四道将軍派(261)   中山茶臼山古墳
・・・・・・・・・・・・・・・・西道(山陽道)・・   (大吉備津彦?)
・・・・・・・・・・・・・・・・・吉備津彦(261以前?)湯迫車塚古墳-
・・・・・・・・・・・・・・・・・若建吉備津彦(同) (若建吉備津彦?)
・・・・・・・・・・・・・・・・丹波道        山城
・・・・・・・・・・・・・・・・・丹波道主      椿井大塚山古墳
・・・・・・・・・・・・・・・・北陸道・・・・・・・・・大和
・・・・・・・・・・・・・・・・・大彦・・・・・・・・・・ 西殿塚古墳
・・・・・・・・・・・・・・・・東海道・・・ ・・・・ ・・ 桜井茶臼山古
・・・・・・・・・・・・・・・・・建沼川別・・・・・ ・・ メスリ山古墳
・・・・・・・・・・・・・その他墓の分からない主要人物 ・・行燈山古墳
・・・・・・・・・・・・・・・・豊鍬入姫(台与)・・・ ・・(崇神天皇)
・・・・・・・・・・・・・・・・豊城入彦(豊鍬入姫の兄)・渋谷向山古墳
・・・・・・・・・・・・・・・・御間城媛(崇神天皇皇后)・(景行天皇)

付則、孝元天皇から推古天皇までの復元紀年

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| 小波礼行 | 源辿の日朝古代史 | 08:13 | comments(0) | - |
邪馬台国問題と三角縁神獣鏡について()
邪馬台国問題と三角縁神獣鏡について()
三角縁神獣鏡と倣製鏡鋳造の目的

 はじめに
 現在、三角縁神獣鏡に関する研究は三角縁神獣鏡そのものの研究というより、邪馬台国所在地論争のための道具としての目的で研究されています。もちろん、その研究結果は邪馬台国の所在地に関連するものなのでそれはそれでいいのですが、そうすると三角縁神獣鏡そのものの研究に自説の先入観が入ってしまいます。そこで、本論ではいったん白紙に戻して一般論で単純簡単に述べていきます。

 三角縁神獣鏡は舶載鏡か倣製鏡か
 私のこの件に関する答えは簡単です。 現在出土の三角縁神獣鏡は、三角縁神獣鏡が魏の明帝から卑彌呼に送られたものとの前提に立つ限り倣製鏡だと思います。理由は簡単です。現在三角縁神獣鏡は五百面以上出土しています。まだ発屈されていない古墳にも埋まっている可能性がありますし、破壊されて失われたものもあるでしょう。まして、宮内庁管理の古墳前期の崇神天皇陵や垂仁天皇陵などの最もたくさん埋まっていると思われる陵墓やお墓が発掘されていないのですからおそらくまだまだあるでしょう。まして、卑弥呼の墓の可能性がある箸墓に無いなどとなればそれこそ話がおかしくなります。しかし、魏の明帝から卑彌呼に送られたのは百面だけですから出土した三角縁神獣鏡のほとんどは倣製鏡のはずです。仮に明帝から送られた鏡が三角縁神獣鏡だとしても出土した三角縁神獣鏡のうちせいぜい数面でしょう。畿内説にはその後の遣使の時にもらったのだという意見もあるようですが、そのような記録は何らありませんし、そのような仮定を設けるならどんな仮定でも設けられます。今一つ、明帝から送られた銅鏡は卑彌呼に送られたものです。その目的は「特賜汝、録受悉可以示汝國中人使知國家哀汝故鄭重賜汝好物也」ですからその大半を各地の王に配布するわけがありません。大半は手元に残す筈です。むしろ、史学上はそんなことより、何故この時期に三角縁神獣鏡がこれほど作られ各地に配布されたかです。そして、それが解れば明帝から送られた銅鏡が三角縁神獣鏡であったかどうか解るのです。

 正始元年鏡・景初三年鏡。景初四年鏡と三角縁神獣鏡の製造時期
三角縁神獣鏡のうち、銘文の中に魏の年号が記された鏡が6面出土しています。天田広峯遺跡・持田古墳48号墳の景初四年鏡2面、神原神社古墳出土の「景初三年」鏡1面、蟹沢古墳・森尾古墳・竹島御家老屋敷古墳の「正始元年」鏡3面です。これらの鏡⒍面の内天田広峯遺跡・持田古墳48号墳の景初四年鏡2面に記された景初四年の年号が魏にはないためこの鏡をめぐっていろんな議論がされています。ただこの議論も邪馬台国の所在地論争の学説主義自説主義のあおりを受けて本末転倒なものになっています。何故かというと、邪馬台国の所在地論争のために、三角縁神獣鏡が中国で作られた舶載鏡か日本で作られた倣製鏡かに集中し、議論がその鏡の鋳造年に及んでいないのです。つまり、景初四年の銘が正しいか誤りであるかは別として、これらの鏡が銘の通り景初三年から正始元年に作られたものなら、それらの鏡が舶載鏡か倣製鏡かに関係なく239年から240年に作られたことになります。しかし、五百枚以上出土した三角縁神獣鏡は弥生時代の墳墓や遺跡からは一枚も発見されていません。つまり、239年から240年頃は弥生時代ではなく既に古墳時代だったことになってしまいます。逆に、それらが古墳時代の四世紀前半に作られたとするならば何故この倣製鏡に百年も前の魏の年号を記さなければならないかです。その答えは一つしかありません。その倣製鏡を作るのに景初三年鏡や正始元年の銘のある舶載鏡があり、それをモデルとしたからです。それに畿内説の人も九州説の人も気づかないのは不思議というより、邪馬台国の所在地論争のための学説主義自説主義で議論するからだと思います。つまり、出土した三角縁神獣鏡のうち、銘文中に魏の年号が記された鏡6面が舶載鏡か倣製鏡かや、其の六面がその銘の年号の時に作られたものかどうかは別として、少なくともその銘の年号の時に作られたものがあったはずです。そして、その年号が偶然卑彌呼の朝見時期と魏から卑彌呼に送付された時期と一致したとは考えられません。従って、魏の明帝から送られた銅鏡百枚の中に三角縁神獣鏡が何面かはあったと考えられます。また、そう考えないと日本で多数の三角縁神獣鏡の倣製鏡が作られ、それが各地方の王に配布された理由も説明がつかないのです。なお、6面の内魏の年号のない景初四年銘のものが2面あることから三角縁神獣鏡は中国で作られたものはないという意見もありますが、魏の正史の年号に景初四年はありませんが、実際には景初四年は存在します。何故なら、明帝は正始元年一月に死亡しておりますが、正始元年は明帝が死ぬまでは景初四年です。従って、三角縁神獣鏡の鋳型の一部が景初三年末か正始元年初めに作られていれば鏡の年号は景初四年になる筈です。なお、卑彌呼の遣使の年について、梁書や神功即位前紀引用の魏志に景初三年とあることから、魏志倭人伝の景初二年は景初三年の誤りとされていますが、もし景初三年とすれば、明帝の詔が出たのは景初三年十二月ですから、景初三年の三角縁神獣鏡を作るのは難しく、魏志倭人伝の景初二年が正しいと考えるのが普通です。


三角縁神獣鏡の配布者は誰で被配布者は誰か
また何故この時期にこれほど多くの倣製鏡が作られ配布されたのか

三角縁神獣鏡には多くの同笵鏡があり、その同笵関係の最も多いのは33面以上の三角縁神獣鏡を出土した椿井大塚山古墳で、次いで備前車塚古墳です。かつて、三角縁神獣鏡の同笵鏡を詳しく研究した小林行雄はおよそ次のようなことを言っています。
椿井大塚山の首長の背後には大和王権の権力者倭王がいて、椿井大塚山の首長は倭王から委嘱され各地の首長に三角縁神獣鏡を配布したと考えられる
この見解は三角縁神獣鏡が中国で出土しない問題とも関係することなのですが、配布者は配布するものと同じものを手許に残すでしょうか。そこで、あらためて三角縁神獣鏡が何時どこで作られたかを考えてみます。
まず、景初二年の明帝の詔にもとずき正始元年に卑彌呼に送られたものが魏志倭人伝に次のように記されています。
「詔書印授を奉じて倭王に拝仮し、並びに詔をもたらし、金帛・錦罽・刀・鏡・采物を賜う。」そして、この詔書には「(それらの物)を録受し悉く以て汝が国中の人に示し、国家(魏)が汝を哀れむのを知らすべし」と書かれています。ただ、この詔書の記事では「国中の人に示すもの」には印授は含まれていません。そして、印綬を除くと送り物の中に「国中の人に示すもの」に相当するものは鏡しかありません。従って、送られた鏡は魏から倭王に送られたものであることを示す何らかのものでなければなりません。つまり、この鏡は一般の鏡ではなく倭王に送るため作られた鏡なのです。従って、この鏡は倭王に送る以上に作ったとしても何の役にも立ちません。当然、中国から出土する筈がないのです。そう考えると何故日本でその倣製鏡が多数作られたのかも明らかになります。つまり、魏から送られた鏡は百面です。当然、卑弥呼の手許にも多数残す必要があるでしょうし、当時の卑彌呼の統属国は三十か国余りですが、一面だけを配布するわけでもなければ、倭国王としては統属していない国にも示す必要があります。とても百枚では足りるはずがありません。当然、国中の人に示すためには多くの倣製鏡を作る必要があります。そして、この倣製鏡は卑彌呼の時代に作り始められたと思いますが、おそらくある期間、壹與の時代にも作り続けられたでしょう。
次に、三角縁神獣鏡の配布者と被配布者ですが、配布者が卑彌呼や壹與であることは明らかですが、椿井大塚山古墳の首長や備前車塚の首長を通じて拝されたものはあるのも事実ですが、小林行雄が言うように「椿井大塚山の首長は倭王から委嘱され各地の首長に三角縁神獣鏡を配布した」というのは考え難い。むしろ、椿井大塚山古墳の首長も被配布者の一人だと思われる。何故なら、まず、配布する者が配布すべき鏡の一面を手許に残すとは考えにくく、むしろ被配布者だからこそ一面が残った可能性が高いこと。第二に、これは本論()の問題ですが、備前車塚の被葬者はもともと備前の首長ではなく、大和から派遣された人物の可能性が高いこと。第三は、椿井大塚山古墳の首長だけではこれだけ広範囲に配布することは不可能と思われるからです。なお、このことは本論()で詳しく述べます。
| 小波礼行 | 源辿の日朝古代史 | 13:57 | comments(0) | - |
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邪馬台国問題と三角縁神獣鏡について()
邪馬台国問題と三角縁神獣鏡について()
魏志倭人伝と前方後円墳の成立

はじめに、
 三角縁神獣鏡の論争についても、邪馬台国の所在地論争の学説主義自説主義のあおりを受けて、いろんな説が生じ思わぬ方向で行われています。しかし、邪馬台国の所在地論争はすでに終わっているわけですから〈私がそう思っているだけかもしれませんが〉、本稿では、過去の学説や諸説にはとらわれず、いったん白紙に戻して大雑把に記していきたいと思います。ただ、この内容はこう考えるのが妥当ではないかというもので、今後の日本古代史の研究の一つの方向性を示すものと思っています。それを確かめるのが今後の研究課題です

古墳の成立時期と古墳時代の始まり。
 三角縁神獣鏡は、全部かどうかは知りませんがその出土がほとんど前方後円墳です。従って、三角縁神獣鏡の研究には前方後円墳の成立時期を知る必要かあります。なお、墳墓は前方後円墳の成立時期以前から存在し、日本の古代史学上では基本的には前方後円墳のできた以降を古墳時代と呼んでいます。その古墳時代の始まりの時期や前方後円墳の成立時期は考古学の編年では基本的には四世紀前半以降とされています。ただ最近では「放射性炭素年代測定法」と「年輪年代法」を統合した結果、 箸墓古墳の築造年を3世紀半ばとはじき出す研究もありますが、これらの議論も所詮は邪馬台国の所在地論争の学説主義自説主義を背景としています。それは魏志倭人伝に次の記事があるからです。
➀、正始八年(247年) 太守王頎到官・・・遣塞曽曹掾史張政等因齎詔書黄幢卑弥呼以死大作冢徑百餘歩
 この記事の「卑弥呼以死大作冢徑百餘歩」の塚について畿内説の人の多くがこの塚を、卑彌呼は倭迹迹日百襲姫であり、倭迹迹日百襲姫が葬られた箸墓が卑弥呼の墓だと考えているからです。ただ、そうだとするとひとつ問題があります。それは箸墓の全長が278メートルあるからです。つまり古代中国の単位、歩は1.38メートルですから箸墓の全長は径二百餘歩になってしまいます。つまり、魏志倭人伝の塚の二倍です。一方、前方後円墳のできる前、つまり弥生時代の墳墓は大きくても25から30メートルですか魏志倭人伝の塚の五分の一ほどです。では私がどう考えているか。それは前方後円墳全体が墓ではなく、円墳部分のみが墓で魏志倭人伝の塚は全貌後円墳の円墳のみを指しており、前方部は墓ではないのではないかと考えているからです。そうすると、円墳部の径は120メートルほどでほぼ徑百餘歩になります。そのように書けばそれこそ自説主義ではないかと言われそうですが、私が前方部を墓と見ず後円墳だけを墓とみるのは魏志倭人伝に前方後円墳の設立事情が書いてあるからです。次にそれを述べます。
 なお、九州説の中には、魏代には一里75m〜80mの短里も併用して使われたという説を取って、一歩は0.22mぐらいとし、魏志倭人伝の塚は22mぐらいとする説もありますが、これは無理だと思われます。何故なら一里が75m〜80mだと末羅国(唐津附近)から伊都国(糸半島)までが4km、伊都国から奴国(博多附近)や不彌国(宇美附近)までの距離が8kmほどになってしまいます。しかも奴国二万余戸となっており、その人たちの生活する田畑を考えるととても納まりきれません。

魏志倭人伝と前方後円墳の成立
 前方後円墳の成立時期については、上述のように四世紀初めに成立したとする説と三世紀中ごろに成立したとする説がありますが、ここでは大雑把に250年頃から350年頃の間のある時期に突然できたとして記していきます。
 まず、前方後円墳のできる前、つまり弥生時代の墳墓はほぼ20mから30mぐらいで最大でも50mを越えるものはありません。それが突然畿内に箸墓のような300m近い巨大墳墓ができるわけです。なぜそのようなことが起こったのか、それを説明する学説などは現在ありません。ただ、それを考える上において重要なことは次の四点です。
 第一は、なぜそのような巨大古墳を作る必要があったのか。逆に言えば、巨大古墳を作った目的です。
 第二は、何故単なる円墳ではなく前方部が必要だったのか。
第三は、誰(どの王)にそのような巨大古墳を作ることができたのか。
第四は、なぜその場所が畿内なのかです。
まず、第四は簡単で、それはそれを作った王権が畿内にあった、つまり、第三に記した王の王朝が畿内にあったからです。
次に、第三の問題ですが、箸墓のような巨大古墳を作るには非常に多くの人手が必要になります。しかし、後漢書倭伝にあるような奴国王(漢委奴国王)や邪馬台国の王であっても単なる一国の王では無理でしょう。つまり、自分の直接支配する民だけではなく、自分が間接的に支配する国の民を駆り出す必要があります。その点卑彌呼は単なる邪馬台国一国の王ではなく、三十国あまりの国を統属しています。いわば「king、of kings(王たちの王)」です。つまり、卑彌呼なら統属する国の民を駆り出せます。従って、魏志倭人伝に記された塚が前方後円墳であったとしても卑弥呼の死んだ247年頃には巨大な前方後円墳を作ることが可能なのです。ただ、卑彌呼は魏志倭人伝に記された塚の被葬者ですから塚を作ったのは後継者の壹與か邪馬台国の官になります。そう考えれば第一の理由も第二の理由も解ります。
魏志倭人伝には次の記事があります。
➁、景初二年十二月詔書報倭女王曰制詔親魏倭王卑彌呼・・・汝之忠孝我甚哀汝今以汝爲親魏倭王假金印紫綬裝封付帯方太守假綬汝其綬撫種人勉爲孝順・・・又特賜汝紺地句文錦三匹細班華罽五張白絹五十匹金八兩五尺刀二口銅鏡百枚真珠丹各五十斤皆裝封付難升米牛利還到録受悉可以示汝國中人使知國家哀汝故鄭重賜汝好物也
➂、其八年太守王頎到官倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢拝假難升米為檄告喩之卑彌呼以死大作冢徑百餘歩更立男王國中不服更誅殺當時殺千餘人復立卑弥呼宗女壹與年十三為王國中遂定政等告喩壹與壹與遣倭大夫率善中郎将掖簑邪狗等二十人送政等還
➁の記事では、魏王朝(明帝)が卑彌呼に金印紫綬を与え親魏倭王とするから、あなたは種人(同一種族の人や他の種族の人)を安んじ、また特に五尺刀二口銅鏡百枚などを与えるから受け取って、悉くあなたの国中の人に示し、魏があなたをいとしく思っていることを知らせよと言っています。
一方➂では、卑彌呼の死後男王を立てたが国中服さず、互いに誅殺しあって、當にその時千餘人を殺した。そこで、また 卑彌呼の宗族の娘十三歳の壹與を立てて王と為して国中を平定したとなっています。この男王を立て人々と壹與を立てた人々が同じ人々だったかは解らないが、とにかく邪馬台国の王権内部で卑彌呼の死後、後継者争いがあったことは確かです。そして、壹與を立てた人々がその後継者争いに勝利した。その時、壹與や壹與を立てた人々は壹與が卑彌呼の後継者であることを国中に知らししめる必要があったはずです。そして、そのようなことは当時、前王の祭儀の場で行われるのが一般的です。そして、壹與もそのような祭儀を行ったと思われます。ただ、その場合、壹與の王位継承はそれ以前の王位継承とは異なります。つまり、今までの王位継承は単なる一国の王の王位継承です。しかし、壹與の王位継承は魏から倭国王として認められは倭の各国の上に立つ王、云いかえれば「king、of kings(王たちの王)」としての王位の継承です。当然、魏からもらった五尺刀や銅鏡を示し、統属する国々の王に知らしめる必要がありますが、その最も効果的な方法は壹與擁立に対立した人々やその民を奴隷として卑彌呼を埋葬する巨大な墓を作るか、もしくは統属している国々の民を駆り出して巨大な墓を作り、そこに統属する国々の王もしくは使者を参列させることです。そして、そこには国々の王もしくは使者を参列させる場所が必要です。そのために作ったのが前方後円墳の前方部だったと思われる。そう考えれば畿内に突然巨大な前方後円墳ができた理由がはっきりします。つまり、その程度の理由がない限り畿内に突然巨大な前方後円墳ができたことの説明がつきません。そして、その後各地に前方後円墳ができるのは大和王権の下、各地の王も小さな「king、of kings(王たちの王)」になっていったからだと思われます。そして、そう考えると、前方後円墳は卑彌呼の死んだと思われる245年頃から250年頃に作られたと思われます。その頃から日本の王権も祭祀主体の王権から政治主体の王権に変わっていったと思われます。
なお、卑彌呼の死の時期は「卑彌呼以死大作冢」の「以死」をどう読むかによって異なります。一般には「卑彌呼以って死す」と読んで正始八年以降と考えられています。かつて、内藤博士は「すでに死す」と読んで正始八年以前としていますが「以」を「すでに」と読むのは難しいと思います。それに対し私は「卑弥呼死す以って大いに冢を作る」と読んで卑彌呼の死を正始四年(243)から八年(247)と考えています。それは次の記事によります。
➃、其(正始)四年倭王復遣使伊聲耆掖邪狗等八人・・掖邪狗等壹拝率善中郎將印授
➄.其六年詔賜倭難升米黄幢付郡假綬
 この➄の記事に黄幢が記されていますが、この黄幢は魏の軍旗と思われます。、この黄幢は正始八年の➂の記事の「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状」に対応するものでありますが、➄の記事に「詔賜倭難升米黄幢付郡假綬」とある以上この➂の記事は➃と➄の記事の間でなければなりません。そして、この黄幢について➂の記事に「因齎詔書黄幢拝假難升米為檄告喩之」とありますが、この記事の「為檄告喩之」の「之」は一見難升米のように見えますが倭王でなければなりません。なぜなら、後文に「復立卑弥呼宗女壹與年十三為王國中遂定政等告喩壹與」とあり、詔書黄幢は難升米「假に拝された」だけであって、その対象は倭王だからです。ただ「為檄告喩之」の倭王は後文に「復立卑弥呼宗女壹與王國中遂定政等告喩壹與」とありますから壹與ではありません。そして、もしこの王が卑彌呼なら「為檄告喩之」は「「為檄告喩卑彌呼」と書かれるはずです。更に➂には「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩更立男王國中不服更誅殺當時殺千餘人」とありますが、もしこれが郡使の塞曹掾史張政等が伊都國に到着後に起こったことならばこの記事の「更誅殺當時殺千餘人」の「當時」という文字はいりません。この記事に「當時」とあるのはこの記事の出来事が、郡使張政等が伊都國に到着する前に起こったことだからです。従って、卑弥呼は明らかに正始八年以前に死んでいるのです。つまり、卑彌呼は正始四年(243)から正始八年(247)の間に死んでいるのです。

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邪馬台国論争の問題点とその所在地
邪馬台国論争の問題点
 陳寿になって魏志倭人伝の行程記事を読む

 邪馬台国論争は一時百家争鳴の時期がありましたが、もともとは、東大系は九州説、京大系は畿内説でした。その流れは今も変わっていません。これ、もともとおかしいはずですよね。学問なら、東大系の学者にも畿内説があり、京大系の学者にも九州説があっても不思議ないはずですよね。これは自説主義というか学説主義ですよね。また在野の研究家の研究もほとんど自説主義ですよね。だから多くの説は簡単な矛盾を犯していますよね。その矛盾を魏志倭人伝の行程記事の読み方と三角縁神獣鏡について簡単に述べてみます。

 まず、行程記事の読み方について、
 畿内説の人も九州説の人も帯方郡から伊都国までの読み方は同じです。しかし、伊都国以降の行程記事の読み方は自説に都合のよいように読み変えています。それを指摘するために行程記事の正しい読み方を記します。

 まず、行程記事の正しい読み方は次のどれかです。
 ㋑、倭人在帯方東南大海之中、從郡➡至倭。
㋺、郡➡循海岸水行歴韓国乍南乍東到其北岸狗邪韓国七千餘里➡
㋩、始度一海千餘里至對海國➡又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國➡又渡一海千餘里至末廬國➡東南陸行五百里到伊都國郡使往来常所駐➡
伊都國以降については、
a㋥、➡東南至奴國百里
 a㋭、➡東行至不彌國百里➡㋬、南至投馬國水行二十日➡ ㋣、南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
もしくは、
b㋥、➡東南至奴國百里、
b㋭、➡東行至不彌國百里、
 b㋬、➡南至投馬國水行二十日➡ ㋣、南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行 一月
もしくは、
c㋥、➡東南至奴國百里
c㋭、➡東行至不彌國百里
c㋬、➡南至投馬國水行二十日
 c㋣、➡南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
です。この内aはほぼ畿内説の読み方に近い読み方です。しかし、従来の読み方と異なっているのは㋥と㋭㋬㋣を並行的に読んでいることです。またcは従来の九州説に近い読み方ですが、九州説では㋣の「水行十日陸行一月」を「水行十日または陸行一月」と並行的に読んでいますが、cでは直線的に読んでいます。bは従来とは異なる読み方です。aとは㋭と㋬㋣を並行的に読む点が、cとは㋬㋣を直線的に読む点が違います。
 まず、行程記事をこのように㋑から㋣まで七つに分類した理由ですが、それはそれぞれの記事の主語と語順と使用文字の関係によっています。まず、使用文字ですが、中国の漢字は一文字一音の一表意文字ですから、漢字が違っていれば必ず意味が異なり、同じ意味の漢字はありません。そして、この行程記事では至」と「到」が使い分けられています。そして、「到」は到着するという意味ですから、「至」には到着するという意味は含まれません。そして、行程記事で到が用いられているのは㋺の文末の狗邪韓國と㋩の文末の伊都國だけです。それは郡史の倭へ行く時の目的地がこの二つだけだからです。まず、伊都國が郡使の行く目的地であることは㋩の伊都國郡使往来常所駐で解ります。ではなぜ狗邪韓國が目的地なのか。狗邪韓國は㋺では其北岸狗邪韓國と記されています。この其の北岸の其の意味ですが、これを韓国とすればそれは北岸ではなく南岸でなければなりません。また倭とすれば狗邪韓國は倭国の一国にならなければなりません。しかし、狗邪韓國は文字通り韓国の一国です。ではこの其は何を指しているのか。それは韓国から倭に行くために最初に渡らなければいけない海(瀚海)を指しているのです。つまり、郡使が倭に行くためにはまず瀚海の北岸にある韓国の狗邪韓國に到着しなければならないという意味で「到」が使われているのです。そして、この「到」の使い方からして行程記事の㋑㋺㋩の主語が郡使であることは明らかですが、しかし、逆に言えば、伊都國は郡使往来常所駐ですから㋥㋭㋬㋣の主語は郡使でないことになります。従って、㋥㋭㋬㋣の主語が誰もしくは何なのかが問題になります。また、㋑㋺㋩の主語は郡使ですが、㋑は別として、㋺と㋩では文の語順が違います。そこで次は行程記事全体の語順の問題を取り上げます。

 まず、行程記事の㋺から㋣までの語順ですが、それは次の通りです。
 ㋺の語順は
  行、方位、到、国名、里程、
 ㋩の語順は
  始(又)、方位、渡(行)、里程、至(到)、国名
 但し、伊都国に対しては始(又)がありません。それは末廬國までの行程の動詞が渡に対して伊都國への動詞が陸行だからです。
 ㋥㋭の語順は
  方位、行、至、国名、里程
 但し、㋥には行という動詞がありません。行程記事の中で渡(行)の動詞が無いのはこの㋥だけです。つまり、この㋥には主語がなく行程記事ではないことを示しています。つまり、aの読み方で㋥と㋭を従来説のように直線的に読まず並行的に読むのはそのためです。
 ㋬㋣の語順は
  方位、至、国名、水行(陸行)、日程
 但し、この㋥㋭㋬㋣の記事には㋩にある始(又)に相当する文字がありません。これは㋩では又が前の行程の動詞渡(行)を受けているからですが、㋥㋭㋬㋣は前の行程の動詞渡(行)に連続する動詞の記事はないからです。但し、従来の九州説のように㋣の「水行十日陸行一月」を「水行十日または陸行一月」と並行的に読むと㋬と㋥の動詞は同じになります。cの読み方で「水行十日陸行一月」を「水行十日または陸行一月」と読まないのはそのためです。更に、cで「水行十日陸行一月」を「水行十日または陸行一月」と読まない理由は他にもあります。まず、第一は魏志倭人伝の中に「AまたはB」と読む文例が四つ記されています。
 ➀、其人壽考或百年或八九十年其俗國大人皆四五婦下戸或二三婦
 ➁、文身各異或左或右或大或小
 ➂.木弓短下長上竹箭或鐵鏃或骨鏃
 ➃、傳辭説事或蹲或跪
つまり、「AまたはB」と書くときはAとBの間に「または」を意味する「或」の文字が必ず入っていますが「水行十日陸行一月」にはこの文字がありません。
更に、cの読み方で「水行十日陸行一月」を「水行十日または陸行一月」と読むと、投馬國が邪馬壹國の南になってしまいます。これが矛盾することは既に言われておりますが、それのみならず、邪馬壹國は海沿いの国になってしまいます。そして、魏志倭人伝には上記行程記事の他に次の記事があります。
㋠、女王國東海渡千餘里復有國皆倭種、又有侏儒國在其南去女王四千餘里、又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至
従って、邪馬壹國は九州の東岸にならざるを得ませんが、その場合、邪馬壹國は投馬國への行程の途中にあるか、投馬國は九州の西岸にならざるを得ません。しかも、魏志倭人伝には
㋷、自女王國以北其戸數道里可略載次有斯馬國次有・・・次有奴國女王境界所盡其南有狗奴國不屬女王。А(正始八年)倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状。
つまり、これでは女王国に統属する投馬國の比定のしようがありません。言い変えればcの読み方で「水行十日陸行一月」を「水行十日または陸行一月」と読むと、ただでさえ矛盾する行程記事が更に矛盾するだけになります。以上から考えても、「水行十日陸行一月」を「水行十日または陸行一月」と読むことは不可能です。従って、魏志倭人伝の行程記事の読み方はa、b、cの三つしかないのです。ではa、b、c の内どの読み方が正しいのか。断定的には言えませんが、次のように考えるのが妥当かと思われます。
まず、a、b、cの読み方の違いですが、これは㋥㋭㋬㋣の各行程記事を直線的に読むか並行的に読むかの違いに過ぎませんが、まず問題になるのは㋥㋭と㋬㋣の行程記事の違いです。㋥㋭と㋬㋣の行程記事の違いは語順が違うこともさることながら、魏志倭人伝の行程記事の矛盾は読み方にあるのではなく㋬と㋣の記事にあるのであって、㋥と㋭にあるのではないことです。二つめには㋥と㋭に記された奴國と不彌國は郡使のいる伊都國から百里で、郡使が伊都國に居ても認識できる程度の距離で、また郡使が日帰りで行くこともできる程度の距離です。それに対し、㋬の投馬國や㋣の邪馬壹國は伊都國に居る郡使には誰かに聞かない限り認識できない遠方です。そして、魏志倭人伝には次のような記事があります。
ァ王遣使詣京都帯方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津捜露傳送文書賜遣之物詣女王不得差錯
この文からいうと、郡使もしくはその同行者の誰かが津(港)まで行き誰かを探しだし、文書や賜遣之物を倭の女王卑彌呼に伝送しているのですが、その探している相手は邪馬壹國から来ている女王の使者以外にはあり得ません。つまり、㋬と㋣の主語は邪馬壹國から来ている女王の使者と考えられます。そして、その使者を探している港が伊都國の港であれば行程記事の読み方はbかcになり、不彌國の港であればaの読み方になります。ただその港が伊都國である可能性は少ないと思われます。その理由は、一つには伊都國にそのような港があるならば末廬國まで船で来た郡使が末廬國から伊都國まで「草木茂行不見前人」のようなところを「陸行五百里」などする必要がないからです。今一つは㋥と㋭の語順は同じですが、㋥には至の前に行の文字がありませんが㋭には至の前に行の文字があります。つまり、㋥には主語がないけれど㋭には主語があることになります。この主語は津(港)まで行き女王の使いを探し出し文書や賜遣之物を倭女王卑彌呼に伝送している郡使か郡使の部下だと考えられます。従って、魏志倭人伝の行程記事はaと読むのが正しいと思われます。但しaが正しい読み方だとしても畿内説が成り立つわけではありません。なぜならaと読んでも邪馬壹國は九州南方の海の中になってしまうからです。言い変えれば行程記事の矛盾は㋬と㋣の記事にあって読み方など大した問題ではないのです。つまり、邪馬台国論争は㋬と㋣の記事にある南という方位と水行二十日・水行十日陸行一月の日程のどちらが正しくどらかが間違いるかを証明しない限り永遠に続くのです。ただ、以上述べてきたことからどちらが正しくどちらが間違いかを証明することは意外に簡単なのです。次にそのことを記していきます。

邪馬壹(台)国の所在地
行程記事の中で間違いのある㋬と㋣の次の記事ですが
㋬、➡南至投馬國水行二十日➡ ㋣、南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
この記事が郡使の邪馬壹國から来た女王の使いからの聞き書きであることは既に述べた通りです。そして、その中の南という方位か水行二十日・水行十日陸行一月という日程に間違いがあるはずです。そこで日程について考えてみますと、イ竜事によれば郡使は邪馬壹國から来た女王の使者に託して「文書賜遣之物」を女王に伝送し、それは「不得差錯」としていますが、魏志倭人伝には他に次の二つの郡使の倭への渡来記事があります。
➅、正始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印授詣倭國拜假倭王
А其八年太守王頎到官倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状遣塞曽曹掾史張政等因齎詔書黄幢卑弥呼以死大作る冢徑百餘歩更立男王國中不服復立卑弥呼宗女壹與年十三為王國中遂定壹與遣倭大夫率善中郎将掖簑邪狗等二十人送政等還
これらの文によると、郡使は女王の使いが邪馬壹國に行き、伊都國に戻るまで伊都國に滞在していたと思われます。その間、水行二十日水行十日陸行一月とすると往復で最低でも四か月かかることになります。そして、実際にその期間が短いと行程記事の日程が間違いだと郡使はすぐに気づく筈です。そう考えると、行程記事の日程はほぼ間違っていないと考えられます。一方方位の南はどうか。これに関連して魏志倭人伝には次の記事があります。
㋦、計其道里當在會稽東治之東
この文、単に行程記事から計ったのなら「當」の文字はいらない筈です。では何故この文に「當」の文字か含まれているのでしょうか。それはこの文の前にある魏志の次の文によっています。
─⊆古以來其使詣中國皆大夫夏后少康之子封會稽
但しこの文、魏志倭人伝の元資料となった魏略では次のようになっています。
、聞旧語自謂太伯之後昔夏后少康之子封於會稽
しかも、魏略の書き出しは
➉、倭在帯方東南大海中依山島為國
ですから、㋦の文章を誰が書いたのかは解りませんが、魏略を書いた魚豢や倭に使いする郡使には、倭人が會稽に封じられた太伯之後で、倭が東南大海中に在るのならば、倭は會稽東治之東に在るという先入観を持っていたはずです。そして郡使にその先入観があつたために、㋦の記事には「當」の文字があるのです。もちろん、その先入観によって郡使や魚豢が東を南に書き変えたというのではありません。むしろ、逆で郡使が女王の使いからその方位を南と聞いたからこそ「當在會稽東治之東」になったのだと思われます。ただ、問題は女王の使いが郡使にどのように伝えたかが問題です。それに関連して成務紀五年秋九月条に次の記事があります。
、即ち山河を隔てて国県を分け阡陌に随いて邑里を定め。因り東西を日の縦とし南北を日の横とする。山の陽を影面と曰く、山の陰を背面と曰く。
つまり、この記事によれば、倭人は中国人と違って東西を縦、南北を横とする方位観を持っていたことになります。もちろん、中国人が南北を縦。倭人が東西を縦と考えていたとしても、中国人にとっても倭人にとっても東が日の登る方向であることには違いがありません。ただ、それが言葉になった場合です。中国語の東(トウ)はあくまで日の登る方向ですが、しかし、日本語の東は日の登る方向ではなく、日に向かう方向(日向し)なのです。そして、中国では日の登る方向は東ですが、日に向かう方向は日の当たる方向陽、つまり南なのです。しかも、郡使は倭が會稽東治之東に在るという先入観を持っているため、日の向かう方向が南であっても、矛盾どころかやはり旧語の通り會稽東治之東に在るのだと思ってしまう筈です。また、仮にその方位に縦横の方位性が付されていたとしても、倭人は東西を縦、郡使は南北を縦と考えているのですから、なおさら南の方位が正しいと思ってしまいます。つまり、㋬㋣の行程記事は、女王の使いがその行程を郡史に「日に向かう方向へ水行二十日、日に向かう方向へ水行十日陸行一月」と伝えたために、日本語と中国語の東という言葉の表現の違いから必然的に起こっただけの話です。そして、行程記事の「南水行二十日南水行十日陸行一月」は「東水行二十日東水行十日陸行一月」が正しいのです。邪馬台国の所在地に関する大論争もたったこれだけの問題だったのです。以上で邪馬台国の所在に関する論争は終わる筈です。ただ、邪馬台国の所在地に関する論争は終わると思いますが、邪馬台国問題はむしろこれからが始まりです。そのために重要な出土物が三角縁神獣鏡なのですが、この論争も邪馬台国の所在に関する自説主義、学説主義のために論争の焦点がぼけてしまっています。何故かというと、三角縁神獣鏡を最初に取り上げたのは小林行雄だったと思いますが、その時小林行雄があたかも椿井大塚山古墳や備前車塚の被葬者が三角縁神獣鏡の配布者のような印象を与えてしまったために、現在の三角縁神獣鏡に関する論争はその観点から行われています。しかし、よく考えると椿井大塚古墳や備前車塚の被葬者は配布者ではなく配布された者のはずです。そして、そう考えると椿井大塚古墳や備前車塚の被葬者が誰であり、黒塚古墳や桜井茶臼山古墳の被葬者が誰であり、卑弥呼や卑弥呼の宗女壹與、卑弥呼の死後立った男王が誰なのかはおおよそ解ります。しかし、それを書くと長くなるので改めて記します。
以上。
| 小波礼行 | 源辿の日朝古代史 | 17:10 | - | - |


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