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源辿の日朝古代史
超唯物論理学概論()
序論1、(超唯物論理学とは何か)、
序論2、(真空エネルギーとは何か)
舞鶴の今一つの記録遺産
女学生の制服セーラー服の歴史、
第四回舞鶴達磨まつり(昭和二十六)
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大正から昭和にかけての朝吹家で文子が見たもの聞いたこと
 昭和三年の朝吹家ご一家の写真とご一家での文子
の写真


大正十三と大正十四年の朝吹家での文子



朝吹家のお客様(岡崎様)のご家族とお友達
文子の 抱いてる赤ちゃんのお父様とおばあさまは既掲載の一0戦闘機の前で記念写真写されている方です。


一枚目のの写真は昭和三年に文子が朝吹家を去る時にご一家が記念に写真を撮っていただいてくださったものです。前列右から二人目が磯子様、その後ろの男性は常吉さまと思われます。朝吹家といえばフランス文学者の朝吹三吉、翻訳家の朝吹登水子、フランス文学者、詩人の朝吹亮二、最近では。2011年度、第144回芥川賞受賞者の作家朝吹真理子さんなど文学関係の有名人が多く出ている家系ですが、文子の行った頃のご当主は常吉氏で三越の社長、そのお父様故英二氏は三井の四天王の一人と言われた方で、文子は朝吹家を言う時は必ず三井の大番頭朝吹家と言っていました。その朝吹家の当時のことを次のように伝えています。
私の家(実家ではなく育った本家の家)は五百坪あって蔵が八つ以上あって、私の家も大きいと思っていたが朝吹家を見た時は大きいのにびっくりした。またお客さんが来るときは帝国ホテルから料理長と料理人がたくさん来るので手伝わされたことなど一度もなかった。ただ、朝吹家では舞踏会のようなものは一度も行われなかった。当時は貧乏公家の娘が沢山いてかわいそうなくらいよれよれの服を着ていたが公家の娘からは抜けられなかったようだった。福沢諭吉は朝吹家に書生のような格好で出入りしていた(福沢諭吉は二十年以上前に死んでいるのでこれは朝吹家の誰かから過去のことを聞いたと思われる)。文子が朝吹家にお世話になったのは関東大震災のあった翌年の大正十三年からだが、それらしき話はなく、写真の家が何処なのかはよく解らない。また、今は失われてないが、椅子に耳元からお臍のあたりまで伸びた白い山羊髭の老人が椅子に座り、横に白い立派な横髭の長岡中将が立っている写真があった。長岡中将の白い横髭は立派で有名だが、当時日本一のひげはその老人のひげだと伝わっています。なお、その老人は歌舞伎役者の守田勘彌だと伝わっていますが、その当時そんな年まで生きていた守田勘彌はいないようなので何かの間違いではないかと思われます。

| 小波礼行 | 舞鶴の今一つの記録遺産(文子のアルバム) | 04:42 | - | - |
明治のお人形さんと大正の花嫁さん
明治のお人形さんと大正の花嫁さん





かわいいお人形さんのような女の子、この写真は明治四十年ごろ写されたもので、女の子は文子の父方の従姉妹で、小浜の酒井藩の御用商人辻家のお嬢様敬子さんです。母は長岡外史(中将)の妹で、朝吹磯子(芥川賞作家朝吹真理子さんの曾祖母)さまの伯母さまです。その関係で、文子は一時長岡中将家にお手伝いさんとして預けられていましたが、すぐに、磯子さまの嫁ぎ先の朝吹家に行儀見習い兼お手伝いさんという名目で移されました。経緯はこういうことです。文子が長岡家に預けられたてすぐ、当時東京帝国大学にいた従兄妹の村田数之助(新舞鶴小学校の校歌の作詞者)さんが心配して見に行くと偶然文子が子守をしていたそうです。それを見た数之助さんが「あれではかわいそうだ」と伝えたために、辻のおばあちゃんが姪の磯子様に預けたそうです。なお、辻からは、酒井藩の御用人の娘さんの歌人山川登美子さんのお兄様に嫁いだ人がいます。そのためか、文子は与謝野晶子のことを皮肉めいて「すごいやり手だった」と言っています。当時、舞鶴から小浜に行くには人力車だったようで、小浜に行くには手前に高い峠があって、私たちが乗っていると人力車が上がれないので私たちも人力車を降りて峠の上まで歩いた。辻の蔵へ行くと千両箱が山のように積んであった。また、妹の久江(生まれて一月後に母が死んだため和田の辻の店子の妻に預けられていた)が来るときは、乳母の夫が人力車を引いて、きれいなベベ着せてもらって来るのだけれど、両手を広げると奴ダコのようでおかしかったと言っています。当時の和田や小浜への交通は人力車だったようです。
花嫁さんは母方の従姉妹で当時の花嫁衣装は黒紋付きで打掛、背中には女紋がはいっていたようです。戦前の花嫁衣装は黒紋付きが多いようです。また、当時は晴れやかな女性の正式な着物にも背中には女紋が入っていたようです。角隠しは現在のようなものではなく、本当に角隠し、小さいものです。黒紋付きに打掛は現在では芸子さんの正装としてしか残っていないようで、着物は引っ越しの時に引き取り手もなく、残念ながら現在はごみのような扱いです。
| 小波礼行 | 舞鶴の今一つの記録遺産(文子のアルバム) | 20:20 | - | - |
珍しい家紋
文子の家紋(外雪輪に方喰)


雪輪に剣片喰と丸に方喰の家紋


一枚目の家紋は文子の嫁ぎ先の紋です。この紋は一見ありふれた雪輪に方喰の紋のように見えますが、雪輪に方喰の紋は多くが普通の雪輪で片喰が剣片喰です。外雪輪に方喰のものもあることはありますが片喰は剣片喰です。しかし、この紋は雪輪が外雪輪で片喰が最も基本的なものです。むしろ、丸に片喰の紋に似ているのです。この紋は紋章辞典を見ても葬儀屋が調べても見つかりませんでした。在所は滋賀県野洲郡小津村で近江源氏の流れをくむもののようです。当主の名前は歴代小平で、六代前の宝暦(1751年~1764年)ごろに長兵衛家から別れたものと思われます。方喰の紋は滋賀県では最も多いとされています。また、方喰の紋は平安時代から鎌倉時代に好まれた紋で、意外に古い紋なのかもしれません。この家系は寺田(じでん)を管理していた地主のようで、御所に女官を上げたこともあるようです。
文子の実家の女紋はアゲハチョウです。アゲハチョウの女紋は特に珍しいものではありませんが、文子の晴れやかな着物の背中にも金色の刺繍の女紋が施されていました。
| 小波礼行 | 舞鶴の今一つの記録遺産(文子のアルバム) | 19:53 | - | - |
古い若狭小浜の観光地図
古い若狭小浜の観光地図



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| 小波礼行 | 舞鶴の今一つの記録遺産(文子のアルバム) | 16:12 | - | - |
村田数之助
村田数之助



| 小波礼行 | 舞鶴の今一つの記録遺産(文子のアルバム) | 18:54 | - | - |
最初の突貫兵と最初の引き揚げ者
最初の突貫兵と最初の引き揚げ者







一枚目の写真は文子の義弟で昭和十四年十二月十四日に二十一歳で支那事変のノモハン事件で戦死しています。その時のことは最初の突貫兵として小さい記事でしたが全国紙に掲載されました。そして、親にはお金(年金)、一辺二十センチほどの正四角高さ1メートル強で頭部は四角錐一つ星を記した墓石、記銘入りの鏡、勲章が送られています。
二枚目の写真はハルビンにあった財務省の役所か官舎の建物(?)、の前で小さく写っている女性が最初の引き揚げ者です。この女性には次のようなエピソードがあります。
昭和二十年、当時財務省の役人であった夫の赴任に伴いハルビンにいましたが、終戦の時、夫は兵役のため先に帰国させられていました。そこで終戦になったのです。幸いにその女性は軍人の家族や財務省の役人の家族といっしょに暮らしていたため、それらの家族と共に汽車でハルビンから逃げたそうです。その時女性は妊娠していました。逃走は顔に墨を塗たり大変だったようです。そして、日本に向かう港についた時あかちゃんを産みましたが、不幸にしたお乳が出ませんでした。その時、ミルクを届けたのがロシア兵だったそうです。もちろんロシア兵と言っても軍の命令ではないでしょうし、ロシア兵と言ってもロシア人とは限りません。おそらくそのロシア兵も子供を残して出征していたのかもしれません。ただ、ロシア兵にもそんな人がいたのは確かです。その後婦人と赤ちゃんは帰国しましたが、日本についた時赤ちゃんはガリガリだったそうです。その赤ちゃんはその後東大を出て、アメリカの大学の大学院を経て日本の東大の教授となり、政府関係機関委員や学会の委員を歴任し、現在も活躍中の著名人です。おそらくご本人はここに記したエピソードなどはご存じないと思いますが。
下の写真は、ハルビンの建物と河辺の風景だと思われます。
| 小波礼行 | 舞鶴の今一つの記録遺産(文子のアルバム) | 00:53 | - | - |
大正の兵士(砲兵隊?)と昭和の兵隊(陸軍)
大正の兵士(砲兵隊?)と昭和の兵隊(陸軍)







| 小波礼行 | 舞鶴の今一つの記録遺産(文子のアルバム) | 20:39 | - | - |
京都北白河の白水園の仲居さんと従業員と・・・・(昭和五年頃)
京都北白河の白水園の仲居さんと従業員と・・・・(昭和五年頃)







 京都銀閣寺畔に今も京料理の老舗として白水園はあり四代目だそうですが、この写真は昭和五年頃の写真で文子の夫が総支配人をしていたころのものです。今が四代目だとすると丁度白水園ができたころと思われます。この写真を見ると、今とは少し雰囲気が違うようです。当時、白水園にはすでにハイヤーがあったそうです。最後の写真の女性は芸子さんなのか店の人なのかはわかりません。おそらく店に呼ばれた芸子さんだと思います。また、当時、近くにはお米屋のお米をつく水車があったようです。

| 小波礼行 | 舞鶴の今一つの記録遺産(文子のアルバム) | 21:07 | - | - |
このブログの見方
このブログはカテゴリー別にいろいろなものをランダムに書いていきますので見たいカテゴリーを選んでいただければ幸いです抱擁
| 小波礼行 | プログツィツター | 04:42 | - | - |
超唯物論理学()・・序論2
超唯物論理学概論()
 序論2 (真空のエネルギーとは何か)
  真空の世界では何故時空とエネルギーの区別がつかないのか

 現在の宇宙の生成に関するアインシュタインのビックバーンモデルはインフレーション理論と結び付けられて時空とエネルギーの区別のつかない真空の世界で真空のエネルギーによって150億年前に起こったとされています。そしてその時の温度は10の32乗度Kとされ、真空エネルギーのサイズは水素原子の一兆分の一とされています。ただ、なぜ温度が10の32乗度Kになったのかとか、真空の世界がどのようなものなのかなどは説明されていません。その上「真空のエネルギー密度を生み出すような粒子や場(真空の世界?)、の正体については謎」とされています。しかし、私の想像仮説ではその説明ができるのです。
 真空の世界が真空のエネルギー密度を生み出すような粒子の場ならその温度は10の32乗度Kということになります。この温度になるには高圧と高エネルギーを生み出す存在が必要です。その場合高圧は想像のつかないほどの高圧力です。例えば水素爆弾を爆発させるには原子爆弾を使って高温高圧力を生み出すのですが、それでも温度はせいぜい一億度C程度です。その温度でも水素爆弾が爆発するのは水素爆弾の爆発を抑える外圧がないために爆発してしまうのです。例えば太陽の中心では水素爆弾のように核融合が行われていますが太陽は爆発しません。それは太陽の中心にはそれだけの外圧がかかっているからです。ただ、真空の世界ではそれが10の32乗度Kの温度に上がるまで爆発を抑えるだけの想像を絶する外圧が必要ということになります。そんな外圧がなぜできるのか、また温度を10の32乗度Kまで上げるエネルギー源は何処に存在するのか、それが問題なります。しかし、私の想像仮説ではそれが簡単に説明できるのです。
 序論1で述べ通り、私の想像仮説では、時空に存在する各時空間はその存在性を等しくしようとして互いに引き合う性質があるとしました。これは逆に言えば各時空間が互いに押し合う外圧を持つということになります。そこで、150億年前の時空とエネルギーの区別のつかない真空の世界が何故そのような世界なのかを考えてみましょう。現在のビックバーンのインフレーションモデルでは真空のエネルギー(非常に小さい質量?,)のサイズは水素原子の一兆分の一で、それが爆発して火の玉宇宙になったとしています。しかし、そんなのは論理にはなっていません。そこで、そうではなくて150億年前には水素原子の一兆分の一のサイズの質量の粒子が無数にある時空間が存在していたと考えればいいのです。その時空間は月や空気などを含む地球のような時空間でもいいし、太陽系でも銀河系でも、多くの銀河系を含む我々の知る宇宙でもいいのですが、そこに現存する質量のすべてのサイズを水素原子の一兆分の一にしてしまえばいいのです。その場合質量の量は変わりませんが質量の個体数はその時空間に対しほとんど無限大になってしまいます。すると、各時空間の質量の存在数は現在と違い非常に等しくなってしまいます。つまり、各時空間の存在性の差はほとんどなくなります。そして、各時空間の引き合う力は非常に小さくなり、外圧も低くなる一方引き合う力によって生じる質量の運動エネルギー量も非常に小さくなってしまいます。つまり、その時空間に存在するエネルギーもほとんど無いことになります。つまり、真空の世界とは時空とエネルギーの区別のつかない世界ではなく、ほとんど各時空間に存在性の差がなくエネルギーがほとんど存在しない世界だと考えればいいのです。ただ、質量は個体ですから空間である時空間とは完全に存在性が等しくすることはありませんから必ず各時空間には差ができます。その結果、質量には多少の運動エネルギーは生じ質量は移動します。その場合、質量の個体数は無限にあるため現在と異なり質量間の距離はほとんどありませんからすぐにぶつかってしまいます。つまり、無限にある質量があちらでもこちらでもぶつかり合います。そして、質量がぶつかるとその運動エネルギーの一部が熱エネルギーになり、一部は質量の回転エネルギーになり、序論1に書いたように、重力も生じ電荷も起こります。電荷が起こると質量は結合を始めますし、また重力によっても結合します。その結果、質量の個体数は減少し、各時空間の差が大きくなり、時空間の引き合う力も大きくなり、外圧も高まり、質量の運動エネルギーも大きくなります。その結果熱エネルギーや質量の回転エネルギーも高まり、重力も電荷した質量も増加します。そして、その反応は連鎖的に起こります。ただ時間的にはまず外圧が高まり、次に運動エネルギーが増加し、次に質量の衝突が起こり、次に熱エネルギーが生じるという順番になるため、熱エネルギーは常に外圧によって閉じ込められることとなりますから、外圧に閉じ込められた熱エネルギーはどんどん累積され温度が無限に高くなっていきます。ただ、それが永遠に続くわけではなく、熱エネルギーは蓄積され温度はどんどん高くなっていきますが、外圧は蓄積されるものではないためやがて外圧がその熱エネルギーを閉じ込められなくなってしまいます。その結果、累積された熱エネルギーは爆発を起してしまいます。それがビックバーンといわれるものです。そして、人間の認識している宇宙という時空間で起きたのが150億年前で、その時の温度が10の32乗度Kだったのです。そう考えれば真空の世界が何で、真空のエネルギーがなぜ生じ、ビックバーンが何故起きるのかの説明がつきます。なお、ビックバーンは時空全体で起こるわけではなく時空の中のある時空間で起きているだけで、我々の知ることのできない時空間では150億年以上前にも起きている筈ですし、現在でも起きているはずです。そして、未来でも起きるはずです。その起きる温度も10の32乗度Kとは限りません。時空間の存在性によっては10の32乗度K以下でも起きる場合もあるでしょうし10の32乗度K以上の温度にならなければ起きない場合もあるでしょう。つまり、ビックバーンは時空上のある時空間で起きている台風のようなものです。従って、宇宙を時空間にあるエネルギーや質量の存在状態と認識するならば宇宙は生成もするでしょうし消滅もするでしょうが、宇宙が時空や時空間そのもののように認識するならば宇宙は生成も消滅もしません。そして、一般的には宇宙は時空や時空間のようなものと思われていますから宇宙は生成も消滅もしません。つまり、宇宙は過去から未来まで永遠に存在している時空(時空間ではない)です。そして、ビックバーンは時空の中のある時空間で起こる一つの現象にしかすぎません。つまり、ビックバーンは地球という時空上の大西洋で起きるハリケーンやインド洋で起きるサイクロン、太平洋で起きる台風みたいなもので、時空上のある時空間でその時空の存在状態によって起こる爆発、まあ、いわば台風のようなものです。それが時空から見た私の想像仮説です。ただ、それが正しいかどうかを実証することはできませんが、超唯物論理学概論()・()ではその具体的な内容を詳しく述べていきます。
| 小波礼行 | 勝念の超唯物論理学(概論) | 22:10 | - | - |


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