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邪馬台国問題と三角縁神獣鏡について()
邪馬台国問題と三角縁神獣鏡について()
愚かなる位置論争
  邪馬台国問題は冷静になればすでに解けていた?。

初めに、
 
 邪馬台国の位置問題に三角縁神獣鏡の問題を最初に提起したのは京大系の正統学者として、邪馬台国畿内説の立場である小林行雄の「三角縁神獣鏡の同笵関係」です。その内容は、この同笵関係の最も多いのは、椿井大塚山古墳(京都府)で、次いで湯迫車塚古墳(岡山県)です(当時)。これらの古墳は最初期の前方後円墳で、椿井大塚山古墳の被葬者から各地の王へ分与され、備前車塚古墳の被葬者へ最も多く贈られたのだろう、というのが小林行雄の見解です。そして「考古学京都学派」では、三角縁神獣鏡が、卑弥呼が中国から贈られた鏡であるという前提がありました。この小林の見解で最も重要なことは実は三角縁神獣鏡が卑弥呼に魏から贈られた鏡であるかどうかということではなく景初三年や正始元年に作成された三角縁神獣鏡が畿内から少なくとも四世紀初めまでに大量に配布されたことが重要なのですが、ただ、邪馬台国論争では京大学説(畿内説)と東大学説(九州説)の人が自説論争をおこなっていて魏からもらった舶載鏡(中国製)か日本で作られた倣製鏡かに目が行って結局は互いにわ解らないことを言い出しているのです。たとえば畿内説の人は魏から百面しか送られていない鏡(三角縁神獣鏡)が五百面以上出土しているのに対しその後の遣使でもらったのだと無責任なことを言い、九州説の人は景初四年鏡が出土しているのは倭人が景初四年のないのを知らず正始元年に間違って景初四年鏡を作ったのだと言っています。これでは九州説の人が三角縁神獣鏡は畿内で正始元年に作られて全国に配布されたと言っているようなもので、畿内大和説を応援しているようなものです。つまり、景初三年から正始元年に作られた三角縁神獣鏡が畿内から大量に配布されたことの意味など全く解っていないのです。では何故邪馬台国論争が現在このような訳の分からぬつまらぬ論争になっているのか簡単に述べてみます。

 邪馬台国論争の簡単知識
 邪馬台国論争はもともと日本にあるはずの邪馬台国が魏志に「会稽東冶の東(台湾辺り)に在る」と書かれていることから始まったのです。そしてその問題を最初に取り上げたのは新井白石で邪馬台国畿内説を論じたのです。それに対し本居宣長が九州説を唱え論争が始まったのですが何故か新井白石が九州説に転じてしまい邪馬台国論争は九州説で落ち着いたのです。ただこの頃は二人とも日本書紀が卑弥呼を神功皇后に見立てていてその頃の時代のことと考えていました。それが明治の終わりころになると卑弥呼の時代が神功皇后の時代より相対的に古くなり、東京帝国大学の白鳥庫吉は卑弥呼を天照大神ではないかと見立て、魏志倭人伝に書かれていることはその時代のことの反映だとし、一方で政治的意味もあって卑弥呼を那珂通世などの山門郡の土蜘蛛田油津姫などと同じ位置付けにし、九州説を取ったのです。そしてその根拠を魏志の「郡より女王国に至る万二千餘里」に求め邪馬台国を九州山門郡としたが、それに対し京都帝国大学の内藤湖南が畿内大和に実在した倭姫だと主張したのです。その根拠として支那の古書が方向を云うとき、東と南と相兼ね、西と北と相兼ねるのはその常例とも云うべきとしたのです。そしてそこから京大学説(畿内説)と東大学説(九州説)との激しい自説論争が始まったのです。それが現在の位置論争の始まりです。ただこの論争にはおかしなところがあります。それが何かというと、もともと邪馬台国問題は魏志の行程記事によれば日本列島にある筈の邪馬台国が日本列島の南方海上に行きつく矛盾から始まっている筈なのですが誰一人魏志の行程記事が間違っているとは言っていないのです。それに関連し三品彰英(京都帝国大学文学部史学科卒業、同志社大学教授、大阪市立博物館館長)の邪馬台国総覧に「湖南は原文を改定したのではなく、南を東に解し得る可能性を注意しているのである」と記しています。この文で注意すべきなのは「原文を改定したのではなく読み変えただけだ」で「南を東に解し得る根拠は示されていないが可能性があること言っていることです。」ということです。そして、内藤湖南の後継者たちは湖南の説をうのみにして自説を展開しているのです。つまり、「南を東に読み変える」ことは無条件に受け入れその正しさを論証しようともしないのです。これは東大学説(九州説)も同じです。どう言っているかというと、魏志倭人伝の行程記事は正しい。南と書かれている以上南である。そして魏志倭人伝の行程記事は放射線状に読むべきだと言っているのです。この放射線状に読む案を最初に提出したのは秋山謙蔵(東京帝国大学文学部国史学科を卒業、國學院大學教授)で、現在ではそれを発展させた形で榎一雄の説で定着していますが、その根拠として行程記事の語順や至と到の違いを上げているのですがこれとてもそう読める可能性があると言っているだけに過ぎないのです。つまり、これも行程記事を間違いとせず読み変えているだけだとしているのです。そしてその後継者たちもやはりそれをうのみにして自説を展開しているのです。また学会では無視されていますが一般的にファンの多い古田武彦の説も同じです。つまり誰一人として魏志倭人伝の行程記事の間違いを調べ訂正しようともしないで、正しいとして読み変えることで逃げているのです。何故そのようなことをするかと言うと、おそらく原本に忠実ではないとして論争相手のみならず身内からも批判を浴びるのを避けるために間違いだと言わずこう読みかえているだけだと逃げてているのです。しかも、これらの説はすべて原本重視としながらも一切原本にある「其の道理を計るに當に会稽東冶の東に在る可し」という記事は無視しています。触らぬ神にたたりなしなのか、臭いものにはふたをしているのか、とにかく一切触れていないのです。だいたい行程記事を書いた本人がこの行程記事によれば邪馬台国の場所は会稽東冶の東になると書いているのにそうは読まず、私のように読めば邪馬台国は九州になるとか畿内大和になるでしょうと言っているのです。馬鹿げた話です。これでは原本重視どころか原本無視です。なお、これ以上邪馬台国論争の歴史をたどっていかに矛盾したものを根拠に論争をしているか述べても時間の無駄なので本論に戻ります。

 邪馬台国論争の原点と論争の共通認識
  
 邪馬台国の位置論争はいかなる自説を持とうとも。改めて原点へ戻り互いに共通認識できる点は共通認識しその土俵の上で論争すべきです。と言ってもおそらく畿内説と九州説に共通認識などないと言われるでしょう。何故なら畿内説の人と九州説の人は犬猿の仲だからです。しかし、次のように質問したらどう答えられますか。
⑴ 邪馬台国は日本列島にあったのか無かったのかどう思いますか、正しいと思いますか?
⑵ 魏志倭人伝の行程記事は間違っていると思いますか?
⑶ 古事記や日本書紀などの日本の文献や考古学的発見などから見て邪馬台国が畿内か九州以外にあったと思いますか、九州・畿内以外にあった可能性はあると思われますか。?
⑷ 魏志倭人伝の行程に関する記事だけで邪馬台国の所在地を確定出ると思いますか、思いませんか?。
この質問に、古代史に関する文献学者・考古学者、それ以外の学識者、学者以外の邪台国研究家、一般の人アンケートを取ればいいのです。おそらくその結論は次の通りとなるでしょう。(1)に関しては、日本列島にあった。日本列島以外ではない。(2)に関しては間違っている。ただし過去の発言上間違っているといえない人がいるかもしれませんが。(3)これは一般人や古代史以外の学識者には答えかねるかもしれませんが、おそらく日本古代史に関する文献学者・考古学者及びそれ以外の古代史研究家は全くなかったとは言えないがまず可能性はないと答えるでしょう。(4)に関しては一概に言えませんが、おそらく確定できない、もしくは確定するのは難しいと答えるでしょう。その上で、(2)に関しては、間違っていないという人にその人の説のレベルがどの程度のものなのか考慮しながら、その人の説を聞けばいいのです。そしてそれを一般の人や多くの人が行程記事は間違っていないと信じるかどうかです。(4)に関しても、(2)の問題と同じで確定できるとした人の説を聞き、それを一般の人や多くの人が確定できると信じるかどうかの問題です。つまり、常識の問題です。ところで、本当に私が言いたいのは、邪馬台国問題は雑論や無駄な論争を避け共通認識できるところは共通認識をお互いにしたうえで焦点を絞って改めて議論すべきであるということです。その共通認識とは、(イ)邪馬台国は日本列島にあり、九州か畿内大和以外に存在した可能性はほとんどない。(ロ)魏志倭人伝の行程記事は間違っていて魏志倭人伝の行程記事だけでは邪馬台国の所在地を確定することは無理だということです。ではどうすればいいか。それは当然魏志倭人伝の行程記事だけでは邪馬台国の所在地を確定することは無理ということになれば他の方法で確認するより他に方法がありません。一つは小林行雄説のような日本の古代史学の知見と魏志倭人伝の記事とを対比しつつ確認するか、今一つは魏志倭人伝の行程記事で確認できなければやはり日本の古代史学の知見と魏志倭人伝の記事とを対比しつつ、畿内か九州のどちらかに邪馬台国が存在しないことを確認すればいいことです。そこでまずは最初の方法を小林行雄の説を例にとって述べていきます。

邪馬台国問題はすでに小林行雄の記した「三角縁神獣鏡の同笵関係」で解けていた?。

 小林行雄の「三角縁神獣鏡の同笵関係」の内容の要点は次の通りです。
⑴ 三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏からもらった鏡である。
⑵ その鏡は、倭王の委嘱をうけた椿井大塚山古墳の首長が各地の首長に配布した。
この二点です。この内(1)については、日本ではすでに100面しかもらっていない鏡が500面以上出土しています。そのために九州説の人は、それは魏からもらった鏡ではなく日本で作られた倣製鏡だと主張しています。それに対し畿内説の一部の人はその後も遣使しているからその時にもらったものだと言っています。しかし、そんな馬鹿なことは言うべきものではありません。少なくとも日本で出土した三角縁神獣鏡のほとんどは日本で作られた倣製鏡だと認めるべきです。しかも、出土した鏡は500面余りですがそれは確認できているだけで、多くの古墳は盗掘されている以上実際の出土数はもっと多いはずですし、しかも、まだまだ出土するでしょう。何故なら、今まで出土した古墳よりも多く出土する可能性のある古墳がまだ発屈されていないためです。その古墳とは宮内庁管理の墳墓です。ただ出土した三角縁神獣鏡がすべて日本で作られた倣製鏡だとは言えません。中には魏からもらったものがあるかもしれませんがそれを証明することは難しいでしょう。ただ重要なのは(2)の問題と相まって、それが何時作られ何時配布され何処でどの程度出土したかです。まず出土地ですが奈良県の100枚、京都府の66枚、福岡県と兵庫県の40枚余り大阪府の38枚、吉備国で28枚余りとされています。ただ、この枚数は宮内庁管理の墳墓が発掘されれば吉備でこの倍あまり、奈良県で倍以上になる可能性があり、また京都府の椿井大塚山古墳のものを奈良県側で計算しますと奈良県が圧倒的に多いのです。次に作られた時期ですが畿内説の人では当然景初三年から正始元年、九州説の人では森浩一のように特定の例外の人はいますが、ほとんどの人は制作の開始は景初三年から正始元年としています。なぜなら、中国にない年号の景初四年鏡は日本で正始元年に作られたものだとしているからです。次に配布時期ですが、仮に前方後円墳の成立が四世紀はじめとしても配布された人が配布されてすぐ死ぬわけではありませんから少なくとも三世紀末、早ければ三世紀中頃には配布され始めたられたとするべきでしょう。また、現在では前方後円墳は三世紀中頃には作られたと言う説がありその説に従えばほとんど作られてすぐに配布され始めたということになります。
次に(2)ついてですが、まず問題は京都府の椿井大塚山古墳の首長が配布した側なのか配布された側なのかです。何故かというと一つには椿井大塚山古墳の首長が小林の言う通り、倭王の委嘱をうけて配布したのなら倭王に対し独立性が高いのですが、配布されたのであれば従属性が高いのです。もっと極端に言えば倭王の臣下だった可能性もあるのです。それは備前車塚の被葬者にも絡む問題です。ただそれはここではさほど重要な問題ではないので改めて記します。それよりも(2)に関し重要なのは(1)との関係も含めて正始元年(240)頃に畿内大和にあった王権がどのような存在だったかということです。もちろん魏志を読む限り後の大和朝廷のような九州から関東までを統一するような王権ではなかったことは確かです。ただ、関東地方や九州中南部は別として少なくとも正始元年(240)から三世紀中頃もしくは末には北部九州から吉備地方に至るまで三角縁神獣鏡を配布する能力のあった王権であったことも確かです。その間長くて五十年短ければ二・三十年です。そこに絞って議論をすればおのずと結論は出てくると思います。詳しくは別途記します。ただこのような議論をすることが今必要なことであって、三角縁神獣鏡が舶載鏡(中国製)か日本で作られた倣製鏡かなどは、今はどちらでもいいことなのです。

 今一つの邪馬台国の所在地の確認方法
 今一つの方法とは、邪馬台国が九州か畿内大和のどちらかにあったという共通認識のもとにそのどちらかに無かったことを証明する方法です。そして、その方法の基本となるのが魏略の次の記事です。なお、本稿以降は魏志倭人伝の文は参考にしますが、基本的にはその元である魏略の逸文によって記します。
女王の南、又、狗奴国有り。男子を以て王と為す。その官拘右智卑狗と曰く。女王に属さず也。
倭は帯方東南大海の中に在り。(女王の東?)、海を度る千里復国有り、皆倭種。注、()内の女王の東は逸文には残っていないが、この文の復は,諒犬遼瑤鮗けており、,砲茲辰峠王の東とした。
倭の南に侏儒国有り。その人長三四尺、女王国を去る四千余里。
この記事で重要なのは女王の東には倭種の国が有り倭の南には倭種と異なる侏儒(小人)の国が有るとなっていることです。注、この文の女王の東は邪馬台国の東を指すのか女王のテリトリーの東を指すのかは不明。
これに関連するものとして、日本書紀と風土記に次の記事があります。
高尾張邑(畿内大和の葛城)に土蜘蛛(赤銅の八十梟帥)有り。その人と為り身短くして手足長し侏儒と相似たり。(神武紀)
値嘉郷(九州の五島列島)、第一の嶋小近の島には土蜘蛛大耳居み、第二の嶋大近の島には土蜘蛛垂耳居む。此の嶋の白水郎は、容貌、隼人に似て、恆に騎射を好み、其の言語は俗人(倭種?)に異なる。『肥前国風土記』
土知朱(土蜘蛛)等力を合わせ防御。且つ津軽の蝦夷と謀り、許多く猪鹿弓・猪鹿矢を石城に連ね張り、官兵を射る。『陸奥国風土記』

この日本書紀や風土記に記された土蜘蛛は大和朝廷に恭順しなかった在地の土豪でその後に平定され服属した人々の集団ですが、上記の文によれば「身短くして手足長し侏儒と相似たり」・「容貌、隼人に似て、恆に騎射を好み、其の言語は俗人(倭種?)に異なる」とあり、一応、隼人や蝦夷とは区別され、倭人・倭種とも区別され、言語は倭人・倭種とは異なるとされています。この土蜘蛛とされる集団は筑前には記されていませんが、東北の陸奥から九州の日向に至るまで日本の各地にいることが記され、邪馬台国の畿内説の比定地の畿内大和の添や葛城の首長もかっては土蜘蛛であったことが記され、磯城の首長八十梟帥(兄磯城・弟磯城)も土蜘蛛だったと思われます。また九州説の比定地筑後の山門郡や宇佐(の川上)の首長も土蜘蛛です。従って、邪馬台国を比定するには邪馬台国の王権の首長(卑弥呼)が土蜘蛛の首長なの倭人・倭種の首長なのか、また、土蜘蛛は縄文人に、倭人は弥生人に似た所があります。従って、土蜘蛛とはどんな人種・民族なのか、その言語の特徴は倭人・倭種、もしくは大和民族とどう異なるのか、などを調べ、邪馬台国の首長を土蜘蛛の首長とした場合と、倭人・倭種の首長とした場合とに分け、邪馬台国を畿内大和(磯城)や九州の山門郡や宇佐郡に比定した場合、日本古代史全体の流れの中で成り立つのかを一つ一つ検証していくのがこの方法です。つまり、現在のように結論を先に決めて議論するのではなく、解らないものは解らないとして解らないことを解ろうとして決論を導くため行うのがこの方法の目的です。勿論それによってすぐに決論が出るか出ないかは解りません。ただ何が解れば結論が出せるかが解る筈です。そして、なにを研究すればいいかだけは解る筈です。今のように味噌も糞もごっちゃにして鶏が先か卵が先かのような議論をしていたのでは何時までたっても邪馬台国の所在地などは比定できないでしょう。ところでこの方法で邪馬台国の所在地を検討するには卑弥呼が魏に遣使した時代(三世紀初め)に日本列島、特に畿内大和や九州の何処にどのような人々が住み、どのような人間がいて、どのような言語を話し、どのような文化を持ち、どのような組織体であったかということと、それが後漢書や魏志や魏略に記された倭人や狗奴国、侏儒国の人間と一致するかを調べることか必要です。ただそれには日本人の起源や日本語の起源、その他日本の古代史の重要な問題に関すること、また、中国人の倭人や狗奴国、侏儒国に対しどの時代どのような認識を持っていたかを知ることがまず必要です。ただ、それは厳密な意味ではなく大雑把であっても大きな流れが解れば十分です。従って、次稿以降は一旦本稿を外れ邪馬台国問題から見た日本古代史総概念論を記します。なお、私は薄識であって学者のように博識でも専門家でもありません。従って、いたって内容は幼稚なものです。ただ叩き台になればいいだけと思っています。間違っていれば専門家が指摘するでしょうし、無視するかもしれません。それでいいのです。いずれすぐに議論せざるを得ぬ時期が来る筈ですか
| 小波礼行 | 源辿の日朝古代史 | 00:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
邪馬台国問題と三角縁神獣鏡について(-2)
邪馬台国問題と三角縁神獣鏡について(-2)
 四道将軍の派遣と三角縁神獣鏡の配布

 はじめに
 崇神紀十年九月条に、大彦命を以て北陸に遣わす。武渟川別を東海に遣わす。吉備津彦を以て西道に遣わす。丹波道主命を以て丹波に遣わす。因り詔して曰く「若し、教を受けざる者あれば即ち兵をあげて撃て」とのたまう。既にして共に印授を授けて将軍とする、と記されています。一方古事記では、丹波に派遣されたのは日子座王とされ、西道に吉備津彦が遣わされたことは記されていませんが、変わりに孝霊記に、大吉備津日子命と若日子建吉備津日子命とは相副いて針間を道の口として吉備国を言向け和したまいき、とあります。この大吉備津彦は倭迹迹日百襲姫の同母弟で、若日子建吉備津日子は倭迹迹日百襲姫の異母弟です。この大吉備津日子の墓とされるものが宮内庁治定の岡山市北区尾上・吉備津にある中山茶臼山古墳(全長105m)とされ、若日子建吉備津日子の墓とされるものが三角縁神獣鏡を十三面出土した備前車塚(全長48.3m)とされています。なお、もう一つ重要なことは、日本書紀にこの四将軍に「印授を授けて将軍とする」と記されていることです。もしこれが事実ならこの印綬とされるものは三角縁神獣鏡の可能性が非常に高いのです。何故なら、当時日本には印綬らしきものはなく、あるとすれば銅鏡しかありえません。次はそのことについて記していきます。なお、本稿も邪馬台国が畿内の大和で、魏志倭人伝の卑弥呼と倭迹迹日百襲姫が同一人物だという前提で記していきます。

 四道将軍に授けられた印綬と三角縁神獣鏡
 魏志倭人伝に魏の明帝から卑弥呼に下賜されたものに金印と銅鏡(三角縁神獣鏡?)百面があります。その目的は、倭人の国を倭国として魏の藩国として認めた上でその王を邪馬台国の女王卑弥呼としたことへの下賜印としての金印と、卑弥呼が魏の承認した藩国(倭国)の王であることを「国中に知らしめさす」ための銅鏡にあったと思われます。そのためこの銅鏡は三角縁神獣鏡という一般にある銅鏡とは異なるものになったと思われます。従って、三角縁神獣鏡が中国で出土しないのは当然のことです。また、他の下賜品の数に比べてこの銅鏡の数が百面と非常に多いのも同じ理由からだと思われます。おそらく「倭人、旧百余国、今使訳通ずる所三十国」より「悉く以て国中の人に示し知らしむ」ためには百面が妥当と考えたのだと思われます。これらの行為は一見倭に対してあまりにも優遇しすぎのように見えますが、これはあくまで魏の外交政策の一環で、当時呉や蜀と覇権を争っていた魏にとってその背後にある朝鮮半島の安定は不可欠です。その朝鮮半島では景初二年(238)に遼東の公孫淵が燕王を自称して魏に対する謀反を起こしています。卑弥呼が魏に遣使したのはその反乱を魏が鎮圧した直後で、魏としては倭人のみならず朝鮮半島の人々にもその寛容さを見せなければならない時期だったと思われます。一方、卑弥呼がその詔書と金印・銅鏡を授録したのは正始元年〈240〉ですが、最も卑弥呼が入手した価値あるものは、魏から親魏倭王の号を受けたことです。つまりそれは卑弥呼が魏と倭人との外交権・交易権を全面的に得たことになります。それまで、倭奴国など中国王朝から号をもらった王はありますけれどそれらは倭の一国としての号で、倭の他の国々の外交権や交易圏に及ぶものではありません。しかし、親魏倭王であれば倭の他の国々すべてに及びます。逆に言えば、他の国々は卑弥呼に対立すれば、魏のみならず、朝鮮半島の国々との交易権を失ってしまいかねません。当時の日本の文化や新しい物・新しい技術などはほとんど中国から朝鮮半島を経て入ってくるものです。その交易権や入手ルートを失うと各地のそれぞれの国の首長はその地位すら危くなりかねません。当時卑弥呼を王とする邪馬台国は既に幾つかの国々を統属していたと思われますが、その範囲は近畿一円と播磨から古丹波〈後の丹後の内、加佐郡と与謝郡は若狭の領域〉山陰、筑前とその近辺に限られていたと思われますが、大和から北九州の筑前にまで進出した邪馬台国が倭人を統一するためにそれを利用しないわけはありません。そして、明帝の詔書にある「悉く以て国中の人に銅鏡(三角縁神獣鏡)を示し、魏が卑弥呼を倭国王としたことを知らしむ」ことを実行しようとしたと思われます。そのためには配布すべき三角縁神獣鏡が百面では不足したと思われ、その結果、多数の三角縁神獣鏡の倣製鏡が日本で作られたと思われます。おそらく、正始二年か三年(241~242)にはすでに何面かは出来ていたと思われます。つまり、出土した景初三年鏡や正始元年鏡が倣製鏡であったとしても、何ら矛盾はないのです。そして、それらの三角縁神獣鏡の倣製鏡はすぐに、まずは邪馬台国周辺の統属国である畿内の国々の首長(王)に配布され、次いで、播磨・古丹波・山陰、とりわけ九州の筑前の統属国の首長に配布されたと思われます。その上、更には統属国の周辺諸国にも及んだと思われます。ただ問題は、その頃には邪馬台国が周辺諸国を統属国としていたように、各地にもそのような周辺国を統属する王権ができていたと思われます。当然そこには邪馬台国の王権とそれぞれの王権との間に対立が生じます。そして、その対立の代表的なものが、北九州で起きた邪馬台国と狗奴国の争いであり、中国地方で起きた邪馬台国と吉備王権の争いだと思われます。ただ、この二つの争いには大きく違うところが二つあります。一つは、吉備王権が北九州の倭奴国などを経由して朝鮮半島との交易を間接的に行っていたのに対し、肥後を中心に肥前・豊後にかけて存在した狗奴国は筑前の倭奴国を経由して朝鮮半島との交易をしていたとしても、邪馬台国が九州に進出する以前は賀周の郷(魏志倭人伝の末羅国の辺りの郷)から直接交易していた可能性が強く、また、大家の嶋(現平戸島)や値嘉の郷(現五島列島)の白水朗(海人)を経由して呉との交易を行っていた可能性もあります。また二つめには、卑弥呼か親魏倭王の称号を得た時、既に北九州の伊都国には一大率(一大駐留軍?)が置かれておりそれが狗奴国との戦闘の主体となったのに対し、吉備王権に対してはそのような軍事起点はなく邪馬台国から直接兵を送る必要があったと思われます。それが魏志倭人伝記には邪馬台国と狗奴国の争いのみが記され、記紀には大吉備津彦と若日子建吉備津日子の吉備への派遣のみが記されることになった原因だと思われます。なお、この二つの争いの内吉備との争いは卑弥呼の存命中に早々と終わったと思われます。それは北九州の奴国を経由してしか大陸との交易ルートを持たない吉備王権にとって、大陸の文物入手するためには結局は大和王権に迎合しなかったからです。それに対し、直接朝鮮半島との交易ルートや呉への交易ルートを持っていた狗奴国との争いは長引いたと思われます。それも卑弥呼の死によって大和王権内部で内乱が起こったために結局うやむやになり、少なくとも百年以上、もしかすると筑紫の君磐井の乱まで続いているかもしれません。なお、詳しいことは改めて述べますが、ここではあらかじめ魏志倭人伝に記された内容のみ記しておきます。

 後漢書・魏志と倭国大乱の経緯
 魏志倭人伝には吉備国との争いの経緯は記されていませんが、邪馬台国と狗奴国の争いの経緯が次のように記されています。
 ➀、その国、本また男子を以て王と為し、住まること七・八十年。倭国乱れ、相攻征すること暦年、乃ち一女子を立てて王と為す。名付けて卑弥呼という。
 ➁、正始八年(247年)太守王頎官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。相攻撃する状を説く。(王頎)塞曹掾史張政等を遣わし因って詔書・黄幢を齎らし、難升米に仮に拝し檄を為してこれ(卑弥呼)を告喩する。
 この文の内、➀は後漢時代に、➁は魏の時代に起こったことです。そして本稿では主に➀について取り上げ、➁については次稿で取り上げます。
 この➀の文章は非常に難解な文章になっています。この記事の出来事は後漢時代の120~190年頃の出来事なのですが、この文章の「その国」をどう読んでもつじつまが合わないのです。そこで、ここでは後漢の記録と魏志の内容について記していきます。と言っても、後漢の倭人に関する記録は後漢書倭伝に記された内容しかほとんど残っていません。しかも、後漢は魏より先の時代ですが、後漢書が記されたのは魏志よりも遅く後漢書倭伝の内容はほとんど魏志倭人伝によっているのです。そして、後漢時代の記録の可能性のあるものはほんの二・三行しかありません。ここではその二・三行を魏志の記録と比較してみます。その対比は次の通りです。
A、後漢書 57年 
㋑、建武中元二年、倭の奴国奉貢朝賀す
㋺、使人自ら大夫と称す。(奴国は)倭国の極南界なり。
㋩、光武賜うに印綬を持ってする。
B、後漢書 107年
㋥、安帝の永初元年、倭(面土)国王師升等生口百六十人を献じ請見を願う。
b、魏志 
 110年頃 ➀、その国、本また男子を以て王と為し、
110~190年➁、住まること七・八十年。倭国乱れ相攻征すること暦年
190年頃 ➂、乃ち一女子を立てて王と為す。名付けて卑弥呼という
C、後漢書
147~188年㋭、桓・霊の間、倭国大いに乱れ、更々相攻伐し暦年主なし
180~190年㋬、一女子あり名を卑弥呼という。共に立てて王と為す。
c、魏志 
 238年  ➃、景初二年倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣で天子に詣で朝献せんことを求む
     ➄、古より以来、その使い中国に詣でるや、皆自ら大夫と称す
 (魏略逸文)其の旧語に聞く、自ら太伯の後と謂うと。
     ➅、郡より倭に至るには・・・伊都国に到る世々王あり、皆女王国に統属す。東南陸行五百里奴国に至る王国
 (魏略記載)その国の王、皆女王に属す也。
      ➆、女王国より以北、その狗古戸数・道理、略載し得きも、その余の傍国は遠絶にして得て詳らかにすべからず。次に斯馬国あり・・・次に奴国あり。これ女王の境界の尽き所なり。
     ➇、その南に狗奴国あり。男子〈卑弥狗呼〉を王と為す。その官に狗古智卑狗あり。女王に属せず。郡より女王国に至る万二千余里に
(魏略逸文)女王の南、又狗奴国あり男子を以て王と為す。其の官拘右智卑狗と曰く、女王に属さず也。
d、魏志
 245年頃 ➈、倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。相攻撃する状を説く。(王頎)塞曹掾史張政等を遣わし因って詔書・黄幢を齎らし、難升米に仮に拝し檄を為してこれ(卑弥呼)を告喩する。

このように後漢書の記事と魏志の記事は、魏志のc-➇・d-➈を除いて、すべて一対のものになっています。それは逆に言えば、後漢書倭伝の記事が魏志倭人伝の記事によって記されたか、魏志倭人伝の記事が後漢の記録によって記されたかのどちらかであることを意味しています。その場合、後漢書倭伝の記事のほとんどは魏志倭人伝の記事によって記されていますから、基本的にはこれらの記事も魏志によって後漢書の記事が書かれたと考えるのが普通ですが、ここではその逆ではないかと思われるものを取り上げていきます。
まずは次の記事の対比です。
A、後漢書 57年 
 ㋑、建武中元二年、倭の奴国奉貢朝賀す。
㋺、使人自ら大夫と称す。(奴国は)倭国の極南界なり。
c、魏志  238年
 ➅、伊都國より東南陸行五百里奴国に至る
➄、古より以来、その使い中国に詣でるや、皆自ら大夫と称す。
➆、女王国より以北・・奴国あり。これ女王の境界の尽きる所なり。
(魏略の逸文)其の旧語に聞く、自ら太伯の後と謂うと。
 まず、後漢書A-㋑と魏志c-➅の関係ですが、これはそれぞれが独立した記事であることはうたがいえません。但し、後漢書A-㋑の奴国と魏志c-➅の奴国が同じものであることも疑い得ません。何故なら、今更説明するほどでもなく両方とも博多附近から大宰府あたりを指しているからです。問題は後漢書のA-㋺の奴国(A-㋑の奴国)と魏志c-➆の奴国との関係です。この二つの奴国が同じものであることはA-㋑の奴国が倭国の極南界であるのに対し、c-➆の奴国が女王の境界の尽き所、その南に狗奴国ありとしているのですから魏志c-➆の奴国のある所も女王の境界の極南界になります。従って、魏志c-➆の奴国も後漢書のA-㋺の奴国(A-㋑の奴国)は同じものとなります。そして、後漢書のA-㋑の奴国と魏志のc-➅の奴国と同じものですから、魏志のc-➅の奴国と魏志のc-➆の奴国は同じものになります。つまり、この二つの奴国は今まで違う国と考えられてきましたがこれは誤りとなります。
それはさて置いて、次に、後漢書A-㋺と魏志c-➄・c-➆の関係ですが、魏志c-➄の記事に続く魏志c-➅の記事は魏志独自の記事であり、c-➆に続くc-➇・d-➈の記事も魏志独自の記事ですから、当然、魏志のc-➄・c-➆も魏志独自の記事と思われ、後漢書A-㋺は魏志c-➄・c-➆によって書かれたように思われがちですが、これは全く逆です。その理由は、後漢書A-㋺の「使人自ら大夫と称す」と魏志c-➄の「皆自ら大夫と称す。」との関係にあります。この関係、一見魏志c-➄によって、後漢書A-㋺の「使人自ら大夫と称す」が書かれたように見えますが、魏志c-➄のもととなった魏略には「其の旧語に聞く、自ら太伯の後と謂う」とあり、陳寿が魏略の「自ら太伯の後」を「皆自ら大夫と称す」と書き変えたことは明らかです。そしてその根拠となっているのが後漢書A-㋺の「使人自ら大夫と称す」の記事のもととなった、後漢の記録です。さらに、魏の郡使は常に伊都国にいてc-➅の奴国(c-➆の奴国と同じ)が伊都国から東南陸行百里のところにあり、その南に狗奴国があることは知っている筈ですから、c-➆の奴国の記事など書く筈がありません。現に、魏略ではc-➆の奴国の南に狗奴国があるとは書いていません。魏略では「女王の南、又狗奴国あり」となっています。つまり、陳寿は魏志のc-➆の奴国を後漢書のA-㋺と同じ後漢の記録「(奴国は)倭国の極南界なり」によって魏志に書き加えているのです。なお、このような書き変えは陳寿だけの問題だけではなく、現代の歴史家も魏略の内容を魏志によって安易に書き変えていますがそれが妥当かどうかは疑問に思われるところです。
 次に、後漢書のB-㋥と魏志のb-➀に始まる一連の次の記事の関係です。
A、後漢書 57年  ㋑、建武中元二年、倭の奴国奉貢朝賀す。
B、後漢書 107年  ㋥、安帝の永初元年、倭(面上)国王師升等生口百六十人を献じ、請見を願う
b、魏志  110年頃 ➀、その国、本また男子を以て王と為し、
C、後漢書147〜188年 ㋭、桓・霊の間、倭国大いに乱れ、更々相攻伐し暦年主なし。
180〜190年頃㋬、一女子あり名を卑弥呼という。共に立てて王と為す。
b、魏志 110〜190年頃➁、住まること七・八十年。倭国乱れ、相攻征すること暦年、
190年頃  ➂、乃ち一女子を立てて王と為す。名付けて卑弥呼という。
c、魏志   238年頃 ➆、女王国より以北、・・・次に斯馬国あり・・・ 次に奴国あり。これ女王の境界の尽き所なり。
 この関係は複雑で一概には言えませんが私は次のように考えています。まず、後漢書C-㋬と魏志b−➂の関係ですが、後漢の記録に卑弥呼の記録があったとは考えられませんから後漢書C-㋬の記事は魏志b−➂によって書かれたものと考えています。次に後漢書のB-㋥と魏志のb-➀との関係ですが、後漢書のB-㋥が後漢の記録によっていることは否定のしようがありません。それに対し、魏志のb-➀の記事は後漢書のB-㋥と同じ後漢の記録によったものと思われます。それは後漢書のC-㋭と魏志のb-➁の関係からです。後漢書のC-㋭と魏志のb-➁との違いは後漢書のC-㋭の「桓・霊の間、倭国大いに乱れ」と魏志のb-➁の「住まること七・八十年。倭国乱れ」の違いですが、まず、魏志の「住まること七・八十年」から後漢書の「桓・霊の間」を推察することができるかというと「桓・霊の間」は四十二年間ですから「住まること七・八十年。倭国乱れ」を推察することは難しいでしょうし、倭国の乱れた起点を桓帝の147年にすることも無理でしょう。それに対し、後漢書のC-㋭の霊帝の末年(188年)からB-㋥の「安帝の永初元年(107年)」の前年(106年)を引くと82年となり魏志のb-➁の「住まること七・八十年」とほぼ一致します。更に、問題になるのは両記事に記された「倭国」の用字です。この「倭国」は後漢書には「(奴国は)倭国の極南界なり。」とか「倭(面上)国王師升等」など他の場所でも「倭国」の文字が用いられていますが、魏志ではここでしか用いられていません。つまり、倭国という文字は後漢書の用字であって魏略・魏志の用字法ではないと思われます。しかも「倭国大いに乱れ」は後漢の時代に起こったことです。従って・魏志のb-➁の記事は後漢書のC-㋭の記事と同じ内容の後漢の記録によって成立しているのです。そうすると魏志倭人伝の記事の ➀の「その国」は後漢時代に中国人が認識していた倭国(倭人の国)で、それは「建武中元二年、倭の奴国奉貢朝賀す」や「安帝の永初元年、倭(面上)国王師升等」の記載から見て、北九州の筑前地域一帯を指すに過ぎないものになってしまい、また「本また男子を以て王と為し」の王は「倭の奴国」や「、倭(面上)国」の王程度の王に過ぎず、「倭国大いに乱れ」の大乱も畿内に至るような大乱ではなく、その乱は筑前にあった倭の奴国や倭(面上)国と筑後か肥後にあった狗奴国との争いに過ぎなかったと思われます。それに対し、魏志d-➈の記事、「倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。相攻撃する状を説く」の争いは、畿内にあった邪馬台国と筑後か肥後にあった狗奴国の争いです。この争いは単なる九州内部の争いではなく、畿内から九州の豪族にいたる争いになっています。何故このようなことになっているのか。もともと、二世紀初めごろにはまだ邪馬台国の王権は北九州まで進出していません。その頃、北九州の筑前の宗主的存在にあったのは筑前の倭の奴国や倭の(面上)国です。そしてその南には狗奴国があったと思われます。それが二世紀末か、遅くとも三世紀初めには畿内の邪馬台国が九州の筑前の国に限って、およびその北の一支国や対馬国まで統属し、魏へ使者を送っています。畿内大和から筑前に至るには出雲もしくは吉備を通過しなければなりません。しかも、吉備との関係は三世紀中頃まで対立しています。また、筑前の国々と背振り山を挟んだ筑後の狗奴国とは三世紀中ごろ以降も争っています。その畿内の邪馬台国がいかにして筑前の国々を統属することができたのか。それが問題になります。そのことに関しては次稿(-3)で詳しく述べますが、そのためには邪馬台国が筑前の国々を統属する前の状況、言い変えれば、後漢時代(一世紀中ごろから二世紀ごろ)の中国人の倭国に関する認識と当時の倭人の交易ルートに関し知る必要があり、まずは、魏志倭人伝の狗奴国、投馬国、邪馬台国の所在地を確認しておく必要があります。従って、次にそれを述べていきます。

 狗奴国・投馬国の所在地と二世紀ごろの交易ルート
 魏志倭人伝の行程記事や後漢書・魏略逸文は伊都國以降の行程を次のように記しています。
伊都国→東南至る奴国百里→奴国女王の境界の尽きる所その南に狗奴国あり
            →女王の南、又狗奴国有り(魏略逸文)
            →奴国は倭国の極南界なり(後漢書)
伊都国→東行至る不弥国百里→南至る投馬国水行二十日→南至る邪馬台国水行十日陸行一月
 この行程記事には今までとは違う問題点が含まれています。まず一つは、伊都国から邪馬台国への行程ですが、これは既に述べた通りこの行程記事の方位の内、不弥国と奴国への方位は伊都国にいた魏の郡使が自ら確認したもので正しいのですが、投馬国と邪馬台国の方位の南は、卑弥呼の使いの倭人が東を「日に向かう方向」と伝えたために、魏の郡使が勘違いし南と理解したものだということはすでに記した通りです。従って、ここで問題になるのは投馬国へ至る行程です。今一つは狗奴国の所在地です。そして、その狗奴国は倭国(倭人の国)なのか、倭国(倭人の国)ではないのかという問題です。まず、投馬国の所在地の問題から述べていきます。
 まず、伊都国から畿内の倭へ至る最短距離は瀬戸内海を水行することです。その場合投馬国は備後の鞆あたりが想定されますが、この行程は瀬戸内海を通っていません。何故なら、古事記では孝霊記に倭迹迹日百襲姫(卑弥呼)の同母弟の大吉備津日子と異母弟の若建吉備津日子が、日本書紀では崇神紀に吉備津彦が吉備を平定したと記されていますから、いずれにせよ230年から240年頃には吉備の王権と畿内大和(邪馬台国)とは敵対関係にあり、備後の鞆などを通過したとは考え難いからです。また、備後あたりから畿内大和まではせいぜい水行十日陸行2~3日で行けるはずで、陸行一月などいりません。従ってこの行程は瀬戸内海航路ではなく、日本海航路ということになり投馬国は出雲ということになります。では何故卑弥呼の使いは最短距離の瀬戸内航路を取らず日本海航路を取っているのか。それはもちろん畿内大和と吉備の王権が対立していたということもありますが、最大の理由は当時交易の中心にあった倭の奴国や倭(面上)国側の交易を担っていた志賀の海人(後の安積氏?)、の航海術と瀬戸内海の海賊的海人の存在にあったと思われます。この瀬戸内の海人というのは後の伊豫水軍となる海賊ですが、もともとは単なる漁民です。ただ瀬戸内の島々や四国の瀬田内の漁民はほとんど農耕地を持っていません。雨もほとんど降りません。大きな川もありません。魚介類というのは取れる時はいくらでも取れるのですが取れる時期は特定季節に集中し保存がきかないため、閑散期には海賊的行為を行わざるを得ない宿命を負っていたと思われます。一方、博多湾の志賀の海人は外海の航海を得意としていたと思われますが、その航海術は日本海航路には向きますが、瀬戸内海のように小島が点在し浅瀬があり、関門海峡や芸予海峡、また播磨灘か鳴門海峡を通らざるを得ず、しかも流れが速くかつ潮の向きも一日に何度も変わる海域です。志賀の海人には不向きな海域だったと思われます。まして、その海域にはその海域に熟知した昼夜を問わず何時海賊的行為を行うか解らない漁民が存在するのです。志賀の海人はそのためにより安全な日本海航路を選んだと思われます。また、縄文末期から稲作を携えた渡来人が日本に朝鮮半島から随時渡来したと思われますが、その多くが稲作に不向きなシラス台地の中南部九州や雨の少ない瀬戸内を避け、対馬海流に乗って雨の多い日本海から畿内へと稲作を伝えていったと思われ、それも北九州と畿内への交易のルートが日本海ルートであったことの大きな要因であったと思われます。そして、その交易ルートが邪馬台国にたやすく筑前の国々を統属することのできた要因だと思われます。何故なら、後漢の光武帝から倭の奴国王から送られた「漢委国王」の金印が志賀の島から発見されています。これはある時期志賀の海人が狗奴国との対立から逃避せざるを得ない時期があってそれが大和へ移り住み安曇の連になった可能性が高いからです。なお、かつては九州や吉備は銅剣銅矛文化圏とされ、稲作と関係の深い銅鐸文化圏は近畿地方とされていましたが、現在では、出雲の加茂岩倉遺跡からは39個もの銅鐸が出土しており、九州では銅鐸の鋳型が佐賀県鳥栖市安永田遺跡で発見され、また銅鐸そのものが吉野ヶ里遺跡で出土しています。しかも、日本で発掘された水田あとの遺跡の最古のものは佐賀県唐津市の菜畑遺跡だとされています。どうも稲作は銅鐸の原型(石製小銅鐸)とともにこの日本海交易ルートと共に畿内へ伝わった可能性が強いのです。なお、この件に関し詳しいことは次稿以降に記します。
 次に狗奴国の所在地についてですが、魏志倭人伝の記載通りなら奴国(博多から大宰府附近)の南、背振山地の南側の筑後もしくは肥後になります。そしてここで注目すべきなのが狗奴国の名称とその官拘右智卑狗の名称です。まず、拘右(古?)智卑狗の名称ですが、魏略では拘右智の拘と卑狗の狗は異なっています。これは誤記なのかもしれませんが、そうでなければその発音は異なると思われます。拘も狗も漢音ではクもしくはコゥですが卑狗は日本語の彦(ヒコ)でしょうから、拘右(古?)智は「クコチ(右は古の誤り」と思われます。従って「拘古智・卑狗」は「クコチ・ヒコ」となりますが、九州の背振山の南の肥後には同名の地名があります。それは和名類聚抄の郡名「菊池(久久知・ククチ)」郡で現在の熊本県菊池市のあたりです。この「拘古智(クコチ)」と「菊池(ククチ)」は一見異なる音のようですが、この菊池郡の南の益城郡には朝来名(アサクナ)の峰があり、この朝来名の朝来(アサク)は和名類聚抄の但馬国の郡名には朝来は(安左古・アサコ)となっており、舞鶴では(アセク)です。これは朝来の音がアサコ→アサク→アセクと変化したことを示しています。また、この菊池郡や益城郡の西には玉名(多万伊奈・タマイナ)郡がありますがこの玉名は景行紀には玉杵名(タマキナ)とあります。この杵名(キナ)の杵(キ)と朝・来名(アサ・クナ)の来(ク)は共に古語の甲類の(キ)の訓仮名で、ちなみに古(コ)は甲類の(キ)の音仮名です。つまり、日本語の仮名文字が音仮名から訓仮名に書き変えられた時、古(コ)→来(ク→キ)→杵(キ)に変化したことを示しています。この変化は乙類の仮名文字でも起こっています。例えば木の葉(許・コノハ⇆木・キノハ)の変化です。以上からして菊池も(クコチ→ククチ→キクチ)と変化している筈で、少なくとも「拘古智(クコチ)」と「菊池(ククチ)」は同音なのです。従って官拘右(古?)智卑狗が官菊池彦ならその王が狗奴国の男王卑弥弓呼であっても不思議はありません。従って狗奴国の所在地は肥後の菊池郡と言う説が成り立ちます。ただ、狗奴国と菊池郡の関係が畿内の邪馬台国と筑前の伊都国や奴国の関係のようなものであれば狗奴国の所在地は別の場所になります。そこで問題になるのが狗奴(クナ)国の名称です。つまり、狗奴(クナ)は発音上拘古智(クコチ)には一致しません。むしろ一致するのは益城郡の朝来名の来名(クナ)です。そして、私はこの益城郡の朝来名が狗奴国の所在地ではないかと考えております。その理由は、この地域に高地性集落が多いこと、また肥前の国風土記に朝来名の峰に打猴・頸猿という土蜘蛛(土豪)の首長がおり、その首長は崇神天皇の時に打たれており、その打猴のサルが猿ではなく猴と記されていること(頸猿のサルは猿で、豊後の直入郡の打猨のサルは猨)、またこの記事が肥の国の総記に記されているためです。ただ問題になるのは魏略逸文では狗奴国は「女王の南、又狗奴国有り」とあって「奴国の南」とはなっていない点です。ではこの女王の南とはどこなのか。これが意外に厄介な問題なのです。つまり、「女王の南」の女王は倭の女王の卑弥呼ですが、この女王は卑弥呼そのものを指しているわけではなく卑弥呼の名によって場所を指しており、この女王が女王卑弥呼のテリトリーを指していて奴国はそのテリトリーの中に存在するとすれば問題ないのですが、「女王の南」が「女王国の南」の意味ならば 魏志倭人伝による限り、「女王の南」は邪馬台国の南となり狗奴国は九州には存在しえないのです。何故なら、魏志倭人伝には次の記事があるからです。
 ㋑、女王国より以て以北その戸数・道理は得て略載すべきもその余の傍は遠絶にして得て詳らかにすべからず。次に斯馬国あり、・・・次に奴あり。これ女王の境界の尽きる所なり。
 ㋺、女王国より以北には、特に一大卒を置き諸国を検察させしむ。諸国これを畏憚する。常に伊都国に治す。
 この文章による限り女王国は邪馬台国でないと意味が通りません。ただ、㋑の文では「女王国より以北・・・次に斯馬国あり、・・・次に奴国あり、これ女王の境界の尽きる所なり」となっており、この文の「女王の境界の尽きる所」の「女王」の用法は「女王の南」の女王と同じ用法ですから、「女王の南」の女王は倭の女王卑弥呼のテリトリーを指す意味と考えられ、狗奴国が九州にあっても問題ないのですが、ただ、魏志倭人伝には別に「侏儒国有り、女王を去る四千餘里」という記事があって、その文面は次の通りです。
㋩、a、女王国の東、海を渡る千餘里、復、国有り皆倭種。
b、又、侏儒国有り、其の南に在り、人長三四尺、女王を去る四千餘里
 但し、この魏志の記事は魏略逸文に次のように書かれています。
 a、(女王国の東)海を度たる千里を、復、国有り、皆倭種
    〈漢書・地理志・燕地・顔師古注、但しこの文には(女王国の東)は漏れている。なお、この文の「度る」は魏略の用字、魏志の用字は「渡る」〉
 b、倭の南、侏儒国有り、其の人長三四尺、女王国を去る四千餘里
    〈法菀朱林・魏略輯本・所引〉
 つまり、「女王の南、又狗奴国有り」の女王の用法は魏志の「女王を去る四千余里」の用法と同じで、その女王は魏略では女王国となっており、女王国が魏志の通り邪馬台国(畿内)を指すのなら狗奴国は九州にはあり得ないのです。そして、九州説の人の一部には私と同じように狗奴国の官狗古智卑狗を菊池(ククチ)彦とし、朝来名(アサ・クナ)を狗奴国として「女王(邪馬台国)の南、又狗奴国有り」として、だから邪馬台国は筑後の山門郡だとする人もあります。ただこれも一理あるようですが、その場合は筑後に投馬国も女王国以て北以外の二十一か国がなければなりません。またこれらの記事には今一つ問題があります。それは魏志の記事と魏略の記事を比較しますと陳寿は「女王国を去る四千餘里」を「女王を去る四千餘里」に「倭の南に侏儒国が有る」を「又、侏儒国有る。其(倭種の国)の南に在る」に書き変えています。なぜそのようなことをしたのか。もともとこの文は「女王国の東、海を渡る」で始まっています。それならば魏略の通り「女王国を去る四千餘里」で終わればいいものを、わざわざ女王国を女王に書き変えています。それはおそらく陳寿の考えていた侏儒国の概念や概念上の存在位置と、魏略から陳寿の読み取った侏儒国の存在位置や概念が違ったためだと思われます。それを表しているのがこれらの文章に用いられた文字、「復」と「又」、「有」と「在」の違いです。具体的に述べてみましょう。すでに記したように魏志の記事は次のように記されています。
㋩、a、女王国の東、海を渡る千餘里、復、国有り皆倭種。
b、又、侏儒国有り、其の南に在り、人長三四尺、女王を去る四千餘里
 まず、a、の文には反復性の「復」が使われています。従って、魏志の文にはそれ以前にそれに対する文がなければなりません。しかし、魏志の文にはそれに対応する文がありません。しかし、魏略の文ではそれに対応する記事があります。それが「女王の南、又狗奴国有り」です。この文には継続性の「又」が使われています。つまり、魏略や魏志の「復」はこの継続性の「又」を受けているのです。そして、魏志は魏略の「女王の南、又狗奴国有り」を「次に奴国あり。これ女王の境界の尽きる所なり。其の南に狗奴国有り」と書き変えたためにその対応がなくなってしまっているのです。なお、漢書・地理志・燕地・顔師古注、の魏略逸文には「女王国の東」が欠落しています。では魏略ではどう書かれていたか。おそらく「女王国の東」ではなく「女王の東」だったと思われます。つまり、魏略に記されていたのは
㋩、a、女王の東、海を渡る千里、復、国有り皆倭種。
であったと思われます。
 次にb、の記事ですが、この記事には継続性の「又」、および単純存在性を意味する「有」と概念的な存在性を意味する「在」が使われています。この単純存在性を意味する「有」と概念的な存在性を意味する「在」との違いの詳しいことは後述するとして、まずここで継続性の「又」が使われている意味ですが、これは侏儒国が皆倭種の国の延長線上の南に有ることを意味しています。その場合魏志の行程記事の文体としては「南、至る三千餘里、又、侏儒国有り」とするのが本来です。しかし、魏志の文体は「又、侏儒国有り、其の南に在り、女王を去る四千餘里」となっています。その理由は文の内容を書き変えたにもかかわらす魏略の文体を用いているからです。では魏略にどう書かれていたか。それは次の通りです。
㋩、b、倭の南、侏儒国有り、其の人長三四尺、女王国を去る四千餘里
 この文には魏志にある継続性の「又」の文字が使われていません。その意味は魏志のように侏儒国は倭種の国の南にないのです。では何処にあるのか。それは倭種の国の南ではなく、「倭の南」、つまり女王国や倭種の国を含む倭人の国々(倭)の南に「有る」としているのです。そして、その意味するところは、「倭(倭人の国々)の南には、倭人以外の人長三四尺の侏儒(小人)の国が有る。そこは女王国から四千余里である」という意味なのです。つまり、侏儒国は国名ではなく、侏儒国、つまり文字通り小人の国という概念なのです。そして、このような概念の記事が邪馬台国の所在地を確かめる重要なポイントになるのですが、それは後述するとして、陳寿が自らの認識によって魏略の文を書き変えたこと示すものがあります。それが魏志に記された単純存在性を意味する「有」と概念的な存在性を意味する「在」の文字です。魏志の文では「侏儒国有り、其の南に在り」となっていますが、魏略の文では単に「倭の南、侏儒国有り」となっていて、「在り」の文字が使われていません。この違いは何なのか。それは魏略の文が単に事実認識として侏儒国(小人の国)が倭の南に有るとしているのに対し、魏略の文では侏儒国(小人の国)があって私の認識上倭種の南に有るとしているのです。つまり、魏略の事実認識の所在地を陳寿に認識の概念上の世界に書き変えているのです。その陳寿の認識の概念上の世界とは何かというと、前漢書地理志や山海経・論衡などに記された倭に関する地理概念上の位置です。そのことは魏志に記された「有る」と「在る」の文を羅列すればわかります。それを記す前に魏志に用いられた中国文字に関して言いますと、魏志倭人伝には至と到、又と復と亦、有ると在るなど日本語ではあいまいに用いられている文字が、厳密に違う意味で用いられています。すでに記したように「至る」は継続性の「いたる」、「到る」は目的地へ到着するという意味での「いたる」、「又」は連続性の亦「また」、「復」は反復性の「また」、「亦」は併存性の「また」、そして、「有る」は事実認識した位置を示すための「ある」、「在る」はその事実認識した位置を概念上の地理的位置を示すための「ある」です。これは魏志倭人伝に限らず魏略も山海経・論衡も倭人に関する記事を読む限り同じです。その上で魏志の例文を記します。
 ㋑、(魏志)倭人在り、帯方東南大海の中、山嶋に依り国邑を為す。舊百餘国。漢の時朝見者あり。今、使譯通じる所三十国。
      郡從り倭に至るには海岸に循い水行し韓国を歷・・・
   (魏略) 倭在り、帯方東南大海の中、山嶋に依り国邑を為す。
      帯方從り倭に至るには海岸に循い水行し韓国を歷・・・
   (前漢書) 楽浪海中倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時を以て来たり、献見すと云う。
   (晋書) 其の女王(卑弥呼)使いを遣わし帯方に至り朝見。その後貢聘絶えず。文帝相に作る、又數至る。泰始初め使いを遣わし譯を重ねて貢を入る。
この文、魏志は魏略の「倭在り」を「倭人在り」に書き変えています。また、これに続く魏略の文は「帯方從り倭に至るには」ですから「倭在り」の方が一貫性があるにもかかわらず、わざわざ「倭人在り」に書き変えています。しかも、「帯方從り倭に至るには」の「帯方從り」を「郡從り」に書き変えています。何故このようなことをしたのか、それは魏略の内容を後漢書の「楽浪海中倭人有り。分かれて百余国を為す。」の「倭人有り」と「楽浪(郡)」によったとしか考えられません。更に、それに続く魏志の「舊百餘国。漢の時朝見者あり。今、使譯通じる所三十国」の文翰苑所引の魏略逸文からは漏れています。もちろんこの文が魏略になかったとは言い切れませんが、少なくとも郡使の報告にはなかったはずです。何故なら、この文の「舊百餘国」は前漢書の「楽浪海中倭人有り。分かれて百余国を為す」によっていることは明らかです。また、この文には「今、使譯通じる所三十国」とあり魏志にはそれに合わすかのようにして女王国の以北以外の二十一か国が記されています。しかし、この文の「今」は「舊百餘国」の「舊」に対する今ですから、この文章が書かれた時点を示します。従って、この文が書かれたのは魚豢が魏略を記した時か、陳寿が魏略を記した時だと思われますが、可能性としては陳寿が魏略を記した時の可能性が高いのです。それは上述したように魏略の「倭に在り」を前漢書により「倭人在り」と書き変えたり、魏略の「其の旧言に聞く、自ら太伯之後と謂う」を前漢書により「その使い中国に詣でるや皆自ら大夫と称す」と書き変えるなど、陳寿が魏略の内容を漢代の知識により意図的に書き変えたと思われる文が散見されるからです。そしてその理由は魏略を書いた魚豢は魏の郎中であったのに対し陳寿が蜀・晋の官吏でありことさら司馬炎(西晋の初代武帝)にその才能を買われていたことに起因すると思われますが、そのことは例文を記し終えた後にまとめて記します。
㋺、(魏志) 女王国の東、海を渡る千餘里、復、国有り皆倭種。
     又、侏儒国有り。其の南に在り、人長三四尺、女王を去る四千余里
      又、裸国黒歯国有り。復、其の東南に在り。船行一年、至る可。
  (魏略)〈女王の東?〉海を度る千里、復、国有り皆倭種。
     倭の南、侏儒国有り、其の人長三四尺、女王国を去る四千余里。
(山海經) 蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り。 倭は燕に属す。
銖鑚∈濛極 爲人 食稻啖蛇
東海の外、大荒の東南隅に山有り。東海の外、大荒の中に山有り
、日・月の出づる所。大人の国有り、小人の国有り、銖錣旅駘り
帝俊は銖錣鮴犬燹  
 この例文ですが、まず、魏志の「又、裸国黒歯国有り。復、其の東南に在り。船行一年、至る可」の文は魏略の逸文からは漏れています。もちろんこの文が魏略には記されていなかったとは言えませんが、この文に記された銖鑚△話羚餮殿紊寮鏐饂代から秦朝・漢代(前4世紀 - 3世紀頃)にかけて徐々に付加執筆されて成立した最古の地理書とされる山海経に記されています。どう考えても郡使が日本に来て銖鑚△里海箸鮹里辰燭箸蝋佑┐蕕譴泙擦鵑里如△海竜事を記したのは魚豢か陳寿ですが、文体、内容から見て陳寿が山海経などの知識から魏略を書き変えたものと思われます。その理由はまず侏儒国と黒歯国の所在地です。魏志は魏略の侏儒国の所在地「倭の南」を「女王国の東の海を渡る場所(倭種の国)の南」つまり、女王国の東の海の東南に書き変えています。そして黒歯国も其の東南としています。この内容はほとんど山海経の「東の海の外、大荒の東南隅に山有り。(その先に)小人の国有り、銖鑚⇒り」の内容と同じです。そしてその文体ですが、魏略は「在り」という用字を「倭伝?」書き出しの「倭在り帯方東南大海の中」以外使っておりません。すべて「有り」です。これは郡使が日本に行く以前から魏ではすでに倭が帯方東南の海の中にあるという認識があったためだと思われます。そして、侏儒国に対しても単に事実認識の「倭の南に有り」です。それに対し、魏志は「侏儒国有り、その南に在り。又、裸国黒歯国有り。復、其の東南に在り。」です。この書き方は山海経の書き方に似ています。山海経では「銖錣旅駘り」とも「銖鑚其の北に在り」とも書いています。この場合「有り」はあるという事実認識、「在り」は「銖鑚其の北に在り」や「蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り」のように方位的地理上の概念位置になっています。これは魏志の文の「侏儒国有り。其の南に在り。又、裸国黒歯国有り。復、其の東南に在り。」も同じです。つまり、魏の郎中であった魚豢は魏で目のあたりで見、聞いたことを事実認識として魏略を書いたのに対し、魏を感の正当王朝の後継者と認めない蜀の官人であった陳寿は意図的に漢の記録によって魏略の内容を書き変えていると思われます。
㋺、(魏志) 1、伊都国郡使の往来常に駐まる所。東南奴国に至る百里。東行不彌国に至る百里。南、投馬国に至る水行二十日。南、邪馬台国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月。
2、其の道理を計るに當に会稽東冶の東に在る可し。
 この文はすべて魏略逸文からは漏れています。と言ってもこれ名の文が魏略になかったというわけではありません。少なくとも1の文はあったでしょう。ただその内容が1の文通りであったかは別問題です。そして、問題は2の文です。まず問題になるのはこの認識を示しこの文章を誰が書いたかです。その人間は郡使とそれを記録した官吏、魏略を書いた魚豢、魏志を書いた陳寿ですが、魚豢はその当時魏の管理ですから三人です。まず郡使は考えられません。そして、魚豢か書いたとすると現在の九州説は成り立ちません。何故なら1の行程記事を書いた本人が子の行程記事によれば邪馬台国(?)は会稽東冶の東に在ると書いているのですから、行程記事を放射線状に読めば九州だというのは本末転倒論外です。ただ、陳寿が書いたとすれば陳寿の1の文の読み違いの可能性もあり成り立ちます。そして、この文はおそらく陳寿が書いたと思われます。この文は「當に(会稽東冶の東に)在る可し」となっていますから当然書いた本人には邪馬台国(?)が会稽東冶の東に在るという先入観があったはずです。もちろん魚豢は「其の旧語に聞く、自ら謂う太白の後」と書いているのですからその先入観がなかったとは言えませんが、魏略逸文を読む限り魏略は倭伝書き出しの「倭は帯方東南大海の中に在り」以外には事前認識で記さず事実認識だけで記しているようです。「在り」という文字もここ以外使っていないようです。それに対し魏志は漢以前の知識による先入観によって魏略を書き変えたり分を追加したりしている可能性が多分にあります。それは上述した㋑や㋺の例文だけではありません。例えば、魏略には「其の俗、歳四時を知らず。但し春耕し秋収めるを記し年記を為す」とあるのに対し、「倭の地温暖冬夏生采を食す」といていますが、それの前の「その風俗・・・衣を作ること単被の如く、・・・木弓はシタを短く上を長くし竹箭或いは鉄鏃、或いは骨鏃なり。有無する所、儋耳・朱崖と同じ」は前漢書地理志粤地の条の「武帝の元封元年、略以て儋耳・朱崖。民皆服布単被の如し、・・・兵則ち矛盾刀木弓弩竹矢、或は骨を鏃と為す」とほとんど同文です。そして、儋耳・朱崖は現在の中国の海南島とされていて、海南島は「会稽東冶の東」というよりはむしろ南の西寄りに有りますが、儋耳(タンジ)は「漢書」地理志(呉地)・後漢書にある「会稽海外に東鯷人有り。・又、夷洲及び澶州(呉志では亶州)有り」の澶州(亶州)と思われ「(澶州)数萬家有り。人民時に会稽の市に至る。会稽東冶の縣人海に入り風に遭い流移し澶州に至る。在る所絶縁にして往来す可からず。」などとあります。これらからしても陳寿は魏略の内容を前漢の時代の知識によって書き変えていると思われます。そうなると、㋺、の1の行程記事と、2、「其の道理を計るに當に会稽東冶の東に在る可し」の関係が問題になります。何故なら、魏略の記事が、㋺の(魏志)の1、伊都国郡使の往来常に駐まる所。東南奴国に至る百里。東行不彌国に至る百里。南、投馬国に至る水行二十日。南、邪馬台国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月。と同じならば、2の記事は「其の道理を計るに会稽東冶の東に在る可し」で十分な筈で「當に・・・在る可し」と書く必要はないはずです。つまり、陳寿は魏略に書かれた㋺の1の記事を読んで魏略の記事では自分の前漢書や後漢の記録から得た倭が会稽東冶の東に行きつかないと判断していためだと思われます。と言っても、魏略に魏志の㋺の1の記事に書かれていた内容と違うことが書かれていたということではありません。ただ魏略の文では倭が会稽東冶の東にならなかっただけの話です。何故そう思ったか、それは魏略に記された「倭は帯方東南大海の中に在り」の記事のためです。何故かというと倭が帯方東南大海の中にあれば倭は会稽東冶の東よりももっともっと東になってしまうためです。では何故この記事が間違いだと陳寿が考えたかというと、陳寿は山海経の「蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り。 倭は燕に属す。」によって倭は郡(楽浪郡・ 帯方郡)の南に有ったと考えていたと思われます。この山海経の鉅燕の南に有った蓋国の所在地は玄菟郡の「蓋馬」、遼東半島の「蓋平」、馬韓の「乾馬」など諸説ありますが、いずれにせよその蓋国が倭の北に在ったとすれば倭は郡(帯方郡)の南にあったことになります。そのため陳寿は魏略の「倭は帯方東南大海の中に在り」を前漢書によって「倭人は帯方東南大海の中に在り」と書き変えた時違和感を感じ、魏略の㋺の1の行程記事を読んだとき倭が郡(楽浪郡)の南、会稽東冶の東にならなかったった、つまり魏略の記事には方位(南)がかかれておらず無意識に「帯方の東南に在り」から東南方向に読んだためと思われます。そして、魏略には書かれていなかった方位(南)を書き加えた。そして「其の道理を計るに當に会稽東冶の東に在る可し」と位置付けたと考えられます。考えてみれば魏略の行程記事に方位が記されていないのは当然のことなのです。なせなら、この行程記事は伊都国に駐まっていた郡使が倭人の使者から聞き書きしたものです。その時倭人が「南、投馬国に至る水行二十日。南、邪馬台国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月」と答えたとは考えにくいのです。理由は二つあります。一つは一般論として邪馬台国へ行くのに倭人が方位など答えるかです。普通は「船で二十日、投馬国に着く、そこから船で十日歩いて一か月で邪馬台国に着く」と答えるはずです。例えば現在でも大阪からニューヨークへ行くのに「東へ新幹線で東京まで四時間。東京からニューヨークへ飛行機で〇〇時間」と答えるはずで方位など答えません。第二に、「其の俗、歳四時を知らず。但し春耕し秋収めるを記し年記を為す」程度の知識の当時の倭人が東西南北などの方位概念を持っていたかです。東西南北というのは中国の方位概念です。中国の方位概念は南北が縦で東西が横です。しかし、成務紀に「東西を日の縦とし、南北を日の横とす。山の陽を影面とし、山の北を背の面と曰く」とあり東西が縦、南北が横となっています。ただここでは東西南北の概念があるようですが、これは日本書紀の記された奈良時代の概念でその基となったと思われる高橋氏文(もと膳部氏の纂記?)では「日堅日横陰面背面」とあり東西南北の概念は入っておらず、また万葉集の藤原宮御井の歌では香山は日經乃大御門、畝火山は日緯能大御門、耳為山は背友乃大御門、吉野山は影友乃大御門とあって東西南北のような方位概念でなく、日のある方向東南、南西、西北、北東を指す面概念で、これは国生み神話も同じで九州は白日別、豊日別、建日別、久土比泥別の四面に、四国は愛比賈、飯依比古、大宜津比米賈、建依別の四面に分けています。その四国の面方位は旧事紀によれば愛比賈は西南、飯依比古は西北、大宜津比米賈は東北、建依別は南東となっていてこの面方位概念は万葉集の藤原宮御井の歌の面方位概念と一致しています。ただこの面方位概念はいわゆる東西南北のような方位概念ではなく単なる場所認識で方位概念とは言えません。更に、方位概念は暦とも関係が深い概念ですが、日本での暦に関する記録は欽明天皇十四年(553) 6月、百済に医博士・易博士・暦博士等の交代や暦本の送付を依頼したのが初めです。ただ、倭王武(雄略天皇)の上表文には東毛人を征すること五十五国は西は衆夷を服すること六十六国渡りて海北を平ぐること九十五国とあり宋の順帝昇明二年(478)には東西南北の方位概念には伝わっていたようですが、これは邪馬台国の時代より二百年後のことですし、この文を書いているのは百済から招へいされた渡来人で必ずしも倭人の概念とは言えません。そして、魏略に「其の俗、歳四時を知らず。但し春耕し秋収めるを記し年記を為す」とある以上邪馬台国の時代には暦も東西南北の方位が念は伝わっていないと考えるのが普通です。したがって、少なくとも倭人(女王の使い)が郡使に東西南北の方位概念である南という方位を伝えたことは考えられません。以上長々と述べてきましたが結論的には私の従来型邪馬台国論争の結論は魏志倭人伝の行程記事の「南、投馬国に至る水行二十日。南、邪馬台国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月」方位南は倭人が郡使に方位を「日に向う方(東)」と伝えたために郡使中国の「日に向かう方(南)」に誤解したためか、魏略に書かれていなかった方位を陳寿が「南」と書き加えたためで魏志の南は誤りであり邪馬台国は畿内大和である。そして、可能性は陳寿が方位「南」を書き加えた可能性の方が高いですが、これはあくまでも私の推測で確証はありません。これでは畿内説を九州説の人に説得できないでしょう。そして、畿内大和から卑弥呼のもらった金印が出土しない限り九州説の人を説得するのは無理でしょう・・・。というのは嘘です。畿内大和から卑弥呼のもらった金印が出土しても九州説の人を説得するのは無理でしょう。何故なら、たぶん九州説の人はこう言うでしょう。その金印は偽物だというと言うと云いすぎですがそう言わないまでもそれは邪馬台国が東遷した時に持って行ったとぐらいは言うでしょう。これは九州で出土しても同じです。畿内説の人も必ずいちゃもんつけるはずですから。大体誰も邪馬台国位置論争なんかやっていないのです。もともと現在の邪馬台国論争は位置論争ではないのです。もとは東京帝国大学の文献学派で九州説の白鳥庫吉が卑弥呼を天照大神と見立てたのに対し京都帝国大学の実証学派の内藤湖南の畿内大和王権の倭姫にみたてた。その論争が東大学説の九州派と京大学説の畿内大和派に別れ激しい論争を始めた。それが発端なのです。学説論争といえば聞こえはいいけれど実際は東大学閥と京大学閥の自説の派閥論争なのです。そして、それに野次馬が加わって魏志倭人伝や考古学的発見の自説に都合のよいところだけを引用して水掛け論をやっているだけです。例えば三角縁神獣鏡の問題にしてもそれが魏からもらった舶載鏡(中国製)か日本で作られた倣製鏡かは大した問題ではないのです。大事なのはその鏡が畿内を中心として九州から関東まで少なくとも四世紀初めまでに大量に配布されていることとその鏡が正始元年(240年)に作られていることです。つまりこのことは240年には畿内大和にそれだけの王権が存在したことを示しているのです。このことに畿内説(京大学説)の人も九州説(東大学説)の人も邪馬台国の自説論争にばかり気を取られているために目を向けていないのです。それは三角縁神獣鏡問題を最初に取り上げた小林行雄すら同じです。つまり小林行雄はそれを示すときに重点を魏から卑弥呼がもらった鏡に置いているのです。これは結局畿内説(京大学説)の自説が重要だからです。ところで、三角縁神獣鏡が正始元年に作られたと書くと九州説(東大学説)の人はきっとこういうでしょう。三角縁神獣鏡は日本で作られた倣製鏡だから正始元年に作られたとは限らないと、でもね、三角縁神獣鏡が畿内で正始元年に作られたと強硬に主張しているのは九州説(東大学説)の人なのですけど。まるで畿内説を応援するかのように。自説主義とはそういうものなのですよ。と言っても、私も野次馬から邪馬台国論争に参加した自説も持たない同じ穴のふらふら狢というか、ボウフラみたいなものですけれど。
| 小波礼行 | 源辿の日朝古代史 | 00:46 | comments(0) | trackbacks(0) |


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