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源辿の日朝古代史
超唯物論理学概論()
序論1、(超唯物論理学とは何か)、
序論2、(真空エネルギーとは何か)
舞鶴の今一つの記録遺産
女学生の制服セーラー服の歴史、
第四回舞鶴達磨まつり(昭和二十六)
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大正から昭和にかけての朝吹家で文子が見たもの聞いたこと
 昭和三年の朝吹家ご一家の写真とご一家での文子
の写真


大正十三と大正十四年の朝吹家での文子



朝吹家のお客様(岡崎様)のご家族とお友達
文子の 抱いてる赤ちゃんのお父様とおばあさまは既掲載の一0戦闘機の前で記念写真写されている方です。


一枚目のの写真は昭和三年に文子が朝吹家を去る時にご一家が記念に写真を撮っていただいてくださったものです。前列右から二人目が磯子様、その後ろの男性は常吉さまと思われます。朝吹家といえばフランス文学者の朝吹三吉、翻訳家の朝吹登水子、フランス文学者、詩人の朝吹亮二、最近では。2011年度、第144回芥川賞受賞者の作家朝吹真理子さんなど文学関係の有名人が多く出ている家系ですが、文子の行った頃のご当主は常吉氏で三越の社長、そのお父様故英二氏は三井の四天王の一人と言われた方で、文子は朝吹家を言う時は必ず三井の大番頭朝吹家と言っていました。その朝吹家の当時のことを次のように伝えています。
私の家(実家ではなく育った本家の家)は五百坪あって蔵が八つ以上あって、私の家も大きいと思っていたが朝吹家を見た時は大きいのにびっくりした。またお客さんが来るときは帝国ホテルから料理長と料理人がたくさん来るので手伝わされたことなど一度もなかった。ただ、朝吹家では舞踏会のようなものは一度も行われなかった。当時は貧乏公家の娘が沢山いてかわいそうなくらいよれよれの服を着ていたが公家の娘からは抜けられなかったようだった。福沢諭吉は朝吹家に書生のような格好で出入りしていた(福沢諭吉は二十年以上前に死んでいるのでこれは朝吹家の誰かから過去のことを聞いたと思われる)。文子が朝吹家にお世話になったのは関東大震災のあった翌年の大正十三年からだが、それらしき話はなく、写真の家が何処なのかはよく解らない。また、今は失われてないが、椅子に耳元からお臍のあたりまで伸びた白い山羊髭の老人が椅子に座り、横に白い立派な横髭の長岡中将が立っている写真があった。長岡中将の白い横髭は立派で有名だが、当時日本一のひげはその老人のひげだと伝わっています。なお、その老人は歌舞伎役者の守田勘彌だと伝わっていますが、その当時そんな年まで生きていた守田勘彌はいないようなので何かの間違いではないかと思われます。

| 小波礼行 | 舞鶴の今一つの記録遺産(文子のアルバム) | 04:42 | - | - |
明治のお人形さんと大正の花嫁さん
明治のお人形さんと大正の花嫁さん





かわいいお人形さんのような女の子、この写真は明治四十年ごろ写されたもので、女の子は文子の父方の従姉妹で、小浜の酒井藩の御用商人辻家のお嬢様敬子さんです。母は長岡外史(中将)の妹で、朝吹磯子(芥川賞作家朝吹真理子さんの曾祖母)さまの伯母さまです。その関係で、文子は一時長岡中将家にお手伝いさんとして預けられていましたが、すぐに、磯子さまの嫁ぎ先の朝吹家に行儀見習い兼お手伝いさんという名目で移されました。経緯はこういうことです。文子が長岡家に預けられたてすぐ、当時東京帝国大学にいた従兄妹の村田数之助(新舞鶴小学校の校歌の作詞者)さんが心配して見に行くと偶然文子が子守をしていたそうです。それを見た数之助さんが「あれではかわいそうだ」と伝えたために、辻のおばあちゃんが姪の磯子様に預けたそうです。なお、辻からは、酒井藩の御用人の娘さんの歌人山川登美子さんのお兄様に嫁いだ人がいます。そのためか、文子は与謝野晶子のことを皮肉めいて「すごいやり手だった」と言っています。当時、舞鶴から小浜に行くには人力車だったようで、小浜に行くには手前に高い峠があって、私たちが乗っていると人力車が上がれないので私たちも人力車を降りて峠の上まで歩いた。辻の蔵へ行くと千両箱が山のように積んであった。また、妹の久江(生まれて一月後に母が死んだため和田の辻の店子の妻に預けられていた)が来るときは、乳母の夫が人力車を引いて、きれいなベベ着せてもらって来るのだけれど、両手を広げると奴ダコのようでおかしかったと言っています。当時の和田や小浜への交通は人力車だったようです。
花嫁さんは母方の従姉妹で当時の花嫁衣装は黒紋付きで打掛、背中には女紋がはいっていたようです。戦前の花嫁衣装は黒紋付きが多いようです。また、当時は晴れやかな女性の正式な着物にも背中には女紋が入っていたようです。角隠しは現在のようなものではなく、本当に角隠し、小さいものです。黒紋付きに打掛は現在では芸子さんの正装としてしか残っていないようで、着物は引っ越しの時に引き取り手もなく、残念ながら現在はごみのような扱いです。
| 小波礼行 | 舞鶴の今一つの記録遺産(文子のアルバム) | 20:20 | - | - |
珍しい家紋
文子の家紋(外雪輪に方喰)


雪輪に剣片喰と丸に方喰の家紋


一枚目の家紋は文子の嫁ぎ先の紋です。この紋は一見ありふれた雪輪に方喰の紋のように見えますが、雪輪に方喰の紋は多くが普通の雪輪で片喰が剣片喰です。外雪輪に方喰のものもあることはありますが片喰は剣片喰です。しかし、この紋は雪輪が外雪輪で片喰が最も基本的なものです。むしろ、丸に片喰の紋に似ているのです。この紋は紋章辞典を見ても葬儀屋が調べても見つかりませんでした。在所は滋賀県野洲郡小津村で近江源氏の流れをくむもののようです。当主の名前は歴代小平で、六代前の宝暦(1751年~1764年)ごろに長兵衛家から別れたものと思われます。方喰の紋は滋賀県では最も多いとされています。また、方喰の紋は平安時代から鎌倉時代に好まれた紋で、意外に古い紋なのかもしれません。この家系は寺田(じでん)を管理していた地主のようで、御所に女官を上げたこともあるようです。
文子の実家の女紋はアゲハチョウです。アゲハチョウの女紋は特に珍しいものではありませんが、文子の晴れやかな着物の背中にも金色の刺繍の女紋が施されていました。
| 小波礼行 | 舞鶴の今一つの記録遺産(文子のアルバム) | 19:53 | - | - |
古い若狭小浜の観光地図
古い若狭小浜の観光地図



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| 小波礼行 | 舞鶴の今一つの記録遺産(文子のアルバム) | 16:12 | - | - |
村田数之助
村田数之助



| 小波礼行 | 舞鶴の今一つの記録遺産(文子のアルバム) | 18:54 | - | - |
最初の突貫兵と最初の引き揚げ者
最初の突貫兵と最初の引き揚げ者







一枚目の写真は文子の義弟で昭和十四年十二月十四日に二十一歳で支那事変のノモハン事件で戦死しています。その時のことは最初の突貫兵として小さい記事でしたが全国紙に掲載されました。そして、親にはお金(年金)、一辺二十センチほどの正四角高さ1メートル強で頭部は四角錐一つ星を記した墓石、記銘入りの鏡、勲章が送られています。
二枚目の写真はハルビンにあった財務省の役所か官舎の建物(?)、の前で小さく写っている女性が最初の引き揚げ者です。この女性には次のようなエピソードがあります。
昭和二十年、当時財務省の役人であった夫の赴任に伴いハルビンにいましたが、終戦の時、夫は兵役のため先に帰国させられていました。そこで終戦になったのです。幸いにその女性は軍人の家族や財務省の役人の家族といっしょに暮らしていたため、それらの家族と共に汽車でハルビンから逃げたそうです。その時女性は妊娠していました。逃走は顔に墨を塗たり大変だったようです。そして、日本に向かう港についた時あかちゃんを産みましたが、不幸にしたお乳が出ませんでした。その時、ミルクを届けたのがロシア兵だったそうです。もちろんロシア兵と言っても軍の命令ではないでしょうし、ロシア兵と言ってもロシア人とは限りません。おそらくそのロシア兵も子供を残して出征していたのかもしれません。ただ、ロシア兵にもそんな人がいたのは確かです。その後婦人と赤ちゃんは帰国しましたが、日本についた時赤ちゃんはガリガリだったそうです。その赤ちゃんはその後東大を出て、アメリカの大学の大学院を経て日本の東大の教授となり、政府関係機関委員や学会の委員を歴任し、現在も活躍中の著名人です。おそらくご本人はここに記したエピソードなどはご存じないと思いますが。
下の写真は、ハルビンの建物と河辺の風景だと思われます。
| 小波礼行 | 舞鶴の今一つの記録遺産(文子のアルバム) | 00:53 | - | - |
大正の兵士(砲兵隊?)と昭和の兵隊(陸軍)
大正の兵士(砲兵隊?)と昭和の兵隊(陸軍)







| 小波礼行 | 舞鶴の今一つの記録遺産(文子のアルバム) | 20:39 | - | - |
京都北白河の白水園の仲居さんと従業員と・・・・(昭和五年頃)
京都北白河の白水園の仲居さんと従業員と・・・・(昭和五年頃)







 京都銀閣寺畔に今も京料理の老舗として白水園はあり四代目だそうですが、この写真は昭和五年頃の写真で文子の夫が総支配人をしていたころのものです。今が四代目だとすると丁度白水園ができたころと思われます。この写真を見ると、今とは少し雰囲気が違うようです。当時、白水園にはすでにハイヤーがあったそうです。最後の写真の女性は芸子さんなのか店の人なのかはわかりません。おそらく店に呼ばれた芸子さんだと思います。また、当時、近くにはお米屋のお米をつく水車があったようです。

| 小波礼行 | 舞鶴の今一つの記録遺産(文子のアルバム) | 21:07 | - | - |
第四回舞鶴達磨まつり(昭和二十六年)
『舞鶴の達磨まつり(67回)』をYouTubeで見ました。67年前とはえらい違いですね。時代の流れを感じます。残念ながら第一回のものはありませんが、第四回の写真がありますので掲載してみます。現在のものとは達磨さんも違っています。また、達磨さんは浮島のものだけでも二つあったようです。今年も11. 4(土)〜11. 5(日)に行われるようですね。にぎやかであることを祈ります。(西宮の老人ホームより)。


磐手通りで


ここは何処でしょう


市民病院前で


ここは何処でしょう


白糸浜神社より少し下流の与保呂川の川岸で、背景の建物は何でしょう。遠くの山は竜宮の愛宕山 ?。

「だるままつりで、ヤットセーノセー」懐かしいですね・・・


| 小波礼行 | 舞鶴の今一つの記録遺産(文子のアルバム) | 21:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
京都府加佐郡立高等女学校の記録遺産
(・e・)
プロローグジョギング
日本の女学生の制服のセーラー服はワンピース型が京都の平安女学院、ツーピース型が福岡の福岡女学院で始まったといわれています。しかし、セーラー服に限らず、今一つの女学生の制服の定番であるジャンパースカート型の制服も含めほとんどの女学生の制服の発祥地は舞鶴の加佐郡立高等女学校(現、西高)です。嘘だと思うなら以下の写真だけでも見てください。舞鶴の幼女・小学生・女学生・婦人の服装が明治三十五年から昭和三十年まで時系列順に並べてあります。舞鶴市もびっくり、後輩も驚くことでしょう。それとも、舞高生は先輩をまねて「最初はグー、オッサンホイ」というかな?、拍手そして、文章を読んで納得できたら宣伝してね。私はツイッターやフェイスブックは苦手だから。それにこのブログを書くのに精いっぱいだから、よろしくね。女

京都府加佐郡立高等女学校の記録遺産
新舞鶴町の女学生の服装と日本の女学生のセーラー服の起源

 はじめに
文子のアルバムと京都府加佐郡立高等女学校

京都府加佐郡立高等女学校は、明治40年(1907)4月に開校され、現在の西舞鶴の城北中学校の場所にありました。その後、大正12年(1923)年1月に京都府立舞鶴高等女学校と改称され、昭和18年(1943)年6月には 京都府立舞鶴第一高等女学校と更に改称され、昭和23年(1948)10月に 京都府立舞鶴第一中学校と統合され現在の京都府立西舞鶴高等学校となり、東地区の学校として東舞鶴高等学校も設立され現在に至っています。
加佐郡立高等女学校は、府県立女学校の中では比較的遅く開設された女学校のひとつで、日本最古の公立女学校の京都一女(現、鴨沂高等学校)や、また明治37年にできた京都府立第二高等女学校(現、朱雀高等学校)のように有名ではなく、日本のおもな高等女学校一覧(ウィキべディア・フリー百科事典)にも記載もされていません。おそらく、現在では加佐郡立高等女学校のことを知っている人はほとんどいないし、大した記録も残っていないでしょうが、しかし、加佐郡立高等女学校のみならず、当時の女学校を知るうえで、貴重な写真が残っているのです。それは同校の女生徒であった文子(仮名)のアルバムです。そのアルバムには、明治35年ごろから、終戦後の昭和30年ごろまでの写真が残っています。明治35年ごろといえば、小西六本店(現、コニカミノルタ)から、日本で最初の市販カメラが発売された時期です。価格は現在価格で百万円以上とされています。現在のように、個人的に家族写真や友人を写すような時代ではありません。にもかかわらずそれが残っているのです。それはさておき、ここではそのうち、京都府加佐郡立高等女学校に関連するものを取り上げ、その服装を中心に、女学校のセーラー服の最初とされる(現)京都平安女学院や福岡女学院、京都府立第二高等女学校のダンスや服装と比較しながら、女学生のセーラー服の歴史について記していきます。なお、そのために当時の舞鶴の服装の変遷や、新舞鶴町(現在の東舞鶴の市街地)の子供のセーラー服や、軍港・加佐郡立女学校の歴史についても記していきます。

日本の女学生のセーラー服の起源

日本の女学生の最初のセーラー服は大正九年に京都平安女学院で着用されたセーラー服とされています。ただこれは現在と異なるワンピース型であったため、現在の女学生のセーラー服の起源は、服装史では大正十年に福岡女学院で着用されたセーラー服がその最初とされています。その経緯については、「大正九年当時(1920年頃)の女学生の服装は着物に袴の和装で、体操や運動には不便で経費がかかるという声があり、福岡女学院の九代の校長であったエリザベス・リーが欧米各国の服装を調査し、欧米で若い女性や高級子供服として流行していたセーラー服を採用し、大正十一年(1922年)に制服とした。そして、この制服をモデルにするようになって女学生のセーラー服は全国に広がった」と言われていま。ただ、舞鶴の女学生や幼子・小学生の服装を見ていると少し疑問があるのです。何故かというと、舞鶴では大正八年頃にはすでに幼子がセーラー服を着ています。そして、大正十二年以前におそらく小学生がセーラー服を着ており、大正十二年にはセーラー服が女学生の制服とされ着用しているようなのです。しかもそのセーラー服は福岡女学院のセーラー服とは基本的に異なるものなのです。そして、そのセーラー服のほうが現在の女学生のセーラー服に似通っているのです。その新舞鶴町の子女の服装とセーラー服の経緯を見てみましょう。

新舞鶴町の子女の服装の洋風化と最初のセーラー服

明治三十五年頃の新舞鶴町の服装と明治四十年頃の服装



この写真の一枚目は明治三十五年四月の東舞鶴地区で最も裕福だったとされる村田弥惣兵衛家(弥惣兵衛は屋号で当時の当主は行永の上羽家から婿入りした人)の長男、長女、次女(文子の母)の写真ですがいかにも地方の田舎の服装で洋風化の兆しはありません。
二枚目と三枚目は明治四十年ころの写真で多少の洋風化が見られます。明治四十年といえば加佐郡立女学校が設立された年です。ただこのような写真は例外で、以下のようにその後も小学生から大人まで服装の洋風化は進んでいません。しかし、加佐郡立女学校が設立されたことと舞鶴の服装の洋風化やセーラー服の着用とは無関係ではないのです。詳しくは後に述べます。なお、四枚目は明治四十五年に写されたものです。





この写真の一枚目は明治四十二年に写されたもので、これが舞鶴の裕福な家の幼子の一般的な服装です。その後も大正六年頃までほとんど変わりありません。ただ赤ちゃんや幼子だけは多少の洋風化が見られるようです。なお、二枚目は大正五年か六年の写真です。

大正七年から十二年頃の幼子と小学生の服装


この写真は大正七年ごろのもので、かぶっている帽子はイギリスのハット帽を子供用にあしらえたもののようです。この帽子は京都平安女学院の女学生のかぶっている帽子とそっくりです。舞鶴ではこのころから終戦までがられていますが、かぶっているのは幼子と小学生だけで女学生はかぶっていません。これは日本の女学校とミッションスクールの違いではないかと思われます。


この写真は大正八年ごろのもので右の写真の年下の女の子の服装は明らかに子供用のセーラー服で、文子のアルバムではこれが最初のセーラー服です。このころから女の子の服装が洋服に変わっているようです。なお、セーラー服の女の子のお母さんは元看護婦で、クリスチャンです。この頃はキリスト教会の仕事をしています。



この写真も大正八年ごろのもので、この頃、男子学生は学生服に、女の子は洋服に変わっているようですが、男の子はあいかわらず着物のようです。なお、左から二人目の女の子はセーラー服です。


この写真は大正十年ごろのもので、左の写真の女の子は小学校一年生、男の子は小学校五年生のようです。幼子の女の子の服装は洋服に変わっています。普通袴にはプリーツのような折り目は両サイドにはついていませんが、この小学生の袴には全面にプリーツのような折り目がついています。また、カバンのかけ方などは当時の兵隊のものとよく似ています。


この写真は大正六年ごろのもので、女の子は小学校四年生と六年生のようです。このカバンのかけ方も同じです。


大正八年から十三年の加佐郡立女学生の服装



この写真は文子が加佐郡立女学校一年の時(大正八年)の同級生と上級生の写真で、前列左の女学生は同級生で、舞鶴出身の俳優故二谷英明氏のお姉さまです。実家は駅前の二谷運送だと思われます。その右の女学生も同級生の広部昌子さまで、太平戦争のさなか、ブーゲルヴィル島ブイン上空で撃墜された山本五十六の一番機に同乗していた参謀(福崎昇中佐?)の奥様の女学生時代の写真です。実家は大門通一条南西角にあった廣部藥店の娘さんです。なお、文子のアルバムの特徴は写っている人の姓名がほとんどわかる点です。


この写真の左の写真は二年生の時(大正九年)のものです。この写真は一年生の時の写真とは足元が変わっています。一年生の時のものは足袋履き(下駄履き)ですが、二年生の時のものは黒靴下に靴履きです。そして、その後はすべて黒靴下に靴履きに統一されています。また、この頃の小袖の着物や羽織はバラバラですが、大正十年には女学生の小袖の着物は統一され、羽織の模様は少し違いますが統一はされているようです。右の写真も同じ時期に写されたようです。このような写真は二十枚以上あったようですが、現在は十枚余りしか残っていません。ただ、失われている写真も誰を写したものだつたかは残っています。


この二枚の写真の年次はわかりませんが、右はおそらく一年の時(大正八年)の同級生で、左も同じころだと思われます。この内、二人の軍服型のツーピスは、ワンピースとツーピースの違いはありますが、左下の写真の服装に舞鶴の子供がかぶっているハット型の帽子をかぶると、京都平安女学院のセーラー服に襟元など非常によく似ています。ただ、この軍服型のツーピースはセーラー服ではありません。これと同様のものは海軍の一〇式艦上戦闘機のパイロットのものです。なぜこのような服装の女学生が加佐郡立女学校にいるのか、それはおそらくこの頃加佐郡立女学校では女学生の洋服の制服が模索されていたからではないかと思われます。その理由は後述します。なお、このスカートには全面にプリーツがあるようです。


この写真は一見小学生のダンスのように見えますが、これは文子が女学校の一年か二年の時(大正八年か九年)の運動会の写真と記されています。そして、背景の建物は加佐郡立女学校の校舎に間違いありません。この写真は文子のアルバムの中で最も貴重なもののひとつです。なぜこれが貴重かというと、この運動会(体操)が兵式体操だからです。兵式体操は明治十九年に文部大臣森有礼の提唱によって男子の学校に採用されたものですが、大正十四年に「陸軍現役将校学校配属令」によって公立の中等学校以上の学校に義務付けられました。その時公立の女学校にも義務付けられ、私立の女学校は任意事項とされました。それは学校に現役の陸軍将校を配属し兵式体操を行うわせるというものです。その配属将校が加佐郡立女学校の大正十年から十二年の三・四年生と大正十三年の五年生の記念写真に写っているのです。また、五年生の修学旅行の引率者もこの配属将校なのです。つまり、大正八年か九年には既に加佐郡立女学校では兵式体操が行われているのです。また、この運動会の背景に写っているテントの二張はアサヒビールのテントですが、このテントが当時京都府議会議長であった奥野繁三郎(後の衆議院議長、舞鶴よみうりには文部大臣とあるがこれは誤り)との関係を示しています。加佐郡立女学校は大正九年の女学校令に基づき京都府立舞鶴高等女学校と改称ています。その同じ年に京都第二高等女学校に改称された京都府立第二高等女学校で行われた大正十五年のダンスオブウエーブのダンスの服装や踊り方などこの写真とまったく同じです。そして、その服装は、ブラウスにジャンパースカートで黒靴下と靴履きで、セーラー服に並ぶ日本の女学生の制服の定番の服装です。舞鶴のセーラー服が女学生の制服として着用されるのは京都府立舞鶴高等女学校と改称された大正十二年の四月と思われますが、この写真の写っている大正八年か九年には舞鶴の加佐郡立女学校には後の女学生の制服の基本となる、小袖の着物と袴、軍服型のツーピースの上着(ブレザー型?)、ジャンパースカートとブラウス、セーラー服とツーヒース用スカート(この写真の正面に写っている半袖の女の子の服装、半袖と長袖の違いはありますが、昭和六年の舞鶴の女学生のセーラー服とそっくりです。普通、ジャンパースカートの上にブラウスなど着ませんから、これはツーピース型のセーラー服の可能性があります。)が全部そろっていたのです。なお、気になるのが、京都平安女学院のセーラー服がこの写真の撮られた翌年か翌々年の大正九年の女学校令の改正された年、福岡女学院のセーラー服がその翌年の大正十年、さらに、同じく最初のセーラー服かもしれないとされる名古屋の金城学院高等学校のツーピース型セーラー服がさらに翌年の大正十一年とこの時期に集中していることです。それがすべて私立のミッションスクールてす。これには何か理由がなければなりません。なお、大正十年に採用された福岡女学院のセーラー服や大正十一年に採用された金城学院のセーラー服が、大正十二年に舞鶴の小学生から 女学生までが着るようになったとも考えられません。おそらくその原因は、当時文部省が男子学生の制服を陸軍将校の服装をモデルとして詰襟の学生服を奨励していたように、女学校令の改正を目的として文部省が女学生の制服を模索していたのが原因でないかと思われます。そして、私立学校のミッションスクールがより早く着用し、公立の加佐郡立女学校が遅れて大正十二年に着用したことにはちゃんと理由があるのです。


この写真は文子が三年生か四年生の時(大正十年か十一年)の三・四年生全員の記念写真です。服装は大正時代の女学生の典型的な「1 小袖の着物 2 羽織 3  帯 4  袴 5 黒い靴下 6 ひもで結ぶ大人の革靴」の服装です。そして、羽織の模様はそれぞれ少し違いますが、小袖の着物はお揃いです。おそらくこの学校の制服に近いもと思われます。なお、大正九年の京都府立第二高等女学校の服装ともよく似ています。ただ、前から二列目の左から二人目、三列目の左から一人目と二人目、五列目の左から二人目の服装は一見セーラー服のようにも見えますが、これは軍服型ツーピースのようで、この写真にはセーラー服を着た子は一人もいません。なお、前列左から十人目が陸軍配属将校です。


この写真は文子が五年生の時(大正十二年四月から十三年三月)のものです。やはり、軍服型ツーピースの女学生が一人います。前から四列目右端の人物が配属将校です。ただ、この写真にもセーラー服を着た女学生は一人もいません。ただ、この写真にセーラー服を着ている子いないからと言って、四年生以下がセーラー服を着ていないとは言えません。なぜかというと、この時の五年生は本来大正十二年三月に卒業するはずだった特別な女学生だからです。なお以下の四枚の写真は五年生の時の修学旅行ですが、この修学旅行の引率者も陸軍の配属将校です。








この修学旅行は出来たばかりの小浜線を使っているようです。行先も京都や大阪ではなく、奈良の春日大社と伊勢神宮です。引率者が陸軍の配属将校であるなどなどいかにも軍港の女学校の感があります。服装も小袖に袴で黒靴下です。また目を引くのが白いビニール傘です。これは当時の女学生の持つ最先端の傘です。たとえば、東京女子師範学校附属高等女学校(現、お茶の水女子大学附属高等学校)の女学生が洋傘を持つようになったのはこれよりほんの少し前です。軍港があったせいか東京の女学生の服装などが意外に早く伝わっていたようです。
なお、ここで京都府加佐郡立高等女学校について簡単に述べておきますと、加佐郡立高等女学校は、もともと軍港の成立に伴って、赴任した軍人の家族の子女が通う女学校がなかったためにわざわざ作られた学校のようで、非常に海軍の影響力の強い学校です。そのため、兵式体操なども早くから行われ、服装なども早く洋風化したと思われます。生徒数は1学年約五十人、全校生徒数は約二百五十人。生徒の多くは軍人の娘と日本国発行質助者(舞鶴の有力者で軍港の成立に土地等を提供するなどをし、国に質権を持っていた者)の娘で、出身地域は海向こう(舞鶴引揚記念館のある大波下一帯)と文子のいた新舞鶴地区・中舞鶴地区と西舞鶴地区です。その地域の違いを文子は次のように言っています。
海向こうの子は船で来るのだけれど毎日は通えないので寄宿舎にいた。西舞鶴の子はジャンケンする時に「オッサンホイ」と言うのでおかしかった。
当時、新舞鶴地区・中舞鶴地区には軍港と海軍の官舎(約百軒)と町営住宅が数か所計約百軒(この近くには砲兵隊の分隊があり、陸軍兵士が住んでいたと思われる)、また、大波下一帯には海軍の輸送基地(後の引き上げ援護局)があり、その出口には海兵団(現在教育隊のあるところ)があって、大波下一帯には大陸出兵のため小浜線で運ばれてきた金沢旅団や関東軍の駐屯地があったようで、西舞鶴地区にも陸軍歩兵第十二連隊の駐屯地があったようです。そして、くしくもそれを示しているのが、加佐郡立女学校の運動会の宣伝のためのアサヒビールのテントです。当時、舞鶴の人間はそれほどビールは飲みません。ではそれを誰が何処で飲んでいたか。それは西舞鶴の朝代新地と中舞鶴の加津良と東舞鶴の竜宮新地の遊郭です。客の大半は海軍や陸軍の軍人と兵士です。その証拠に当時北近畿最大の遊郭(個々の客の大半は陸軍第二十連隊の兵士)がこの頃から衰退し始めています。朝代新地は以前からの遊郭で花街ですが、加津良と竜宮新地の遊郭は軍港型といわれる遊郭で、花街ではなくいわば従軍慰安婦的要素の強い遊郭です。とくに竜宮新地の遊郭は最盛期には二十六軒以上、芸妓約三百人、娼妓約七百人いました。遊女の数だけ言えば京都の祇園や東京の吉原に匹敵します。そして、この遊郭設置に深くかかわっているのが当時の京都府議会議長だつた奥繁三郎です。
加佐郡立女学校の教育はおそらく海軍や政府の服影響が強くそのため早くから兵式体操が行われ、制服にもその影響が出たと思われます。ただ、女学生の生活は、一般に言われているような秀才才女の集団のようなものではなく、また、兵式体操といっても若者の体力をつける軍事的目的はあったとしても、単に当時軍隊でしか行われていなかった西洋式体操にすぎないと思われます。



昭和元年から昭和六年の幼子、小学生、女学生の写真


この写真は昭和元年(大正十五年)か二年のもので、幼子は大正十四年生まれで、年長の子は女学校一年、他の子は小学校三年と五年のようです。幼子のかぶっている帽子は幼子用の水兵帽、小学生の帽子はハット帽で、平安女学校の帽子によく似ています。小学生も女学生も名札を付けているので通学服のようです。ともにツーピース型のセーラー服で、違いは小学生はスカーフが色付きリボン結び、女学生が白色ネクタイ結びです。この結び方は以降も変わりません。以下の写真を見るとこのセーラー服は通学の時以外も来ていたようです。このセーラー服は昭和元年にいっせいに着るようになったとは考え難く、おそらく女学生のセーラー服は大正十二年一月に学校が郡立から京都府立になった年の三月に制服になったと考えられます。このセーラー服の特徴は現代の女学生のセーラー服の特徴とそっくりです。色は紺、スカーフは白、襟と袖口には二本の白い線(白い線二本はもともとは軍章と思われ日本海軍の水兵服の特徴、欧米の水兵や婦人子供用のセーラー服は三本)、胸当ては水兵用Tシャツと同じようなものと思われます。小学生の胸当てにも白い線が二本あります。以下の写真の夏服などを見ると、スカートにも日本の女学生のセーラー服の特徴であるプリーツも入っているようです。このプリーツは女の子の小学生の通学用の袴からきていると思われます。普通婦人の袴には両サイドにはプリーツがありませんが、大正八年ごろの小学生の通学用の袴には全面にプリーツがあります。欧米のスカートにはこのようなプリーツはありません。むしろ欧米の女の子や婦人のセーラー服は、可愛いもしくはドレッシーなワンピース型が多いようです。なお、右の写真は昭和四年ごろのものです。




この写真は昭和二年に撮られたもののようです。この写真はさらにその特徴がはっきり写っています。小学生の胸当ての日本線もはっきり見えます。そして、舞鶴の女学生のセーラー服の最大の特徴は白いネクタイです。このネクタイはいわゆる男性のネクタイのようなものではなく、スカーフをバイアースに折り、ネクタイ結びをしているものと思います。この白いネクタイやネクタイ結びは小学生はしていません。これは女学生特有のものです。これは海軍や文部省の志向によるものと思われます。当時、文部省は男子の学生服を陸軍の士官の服装をモデルにした詰襟の学生服を奨励しています。そして、もし海軍や文部省が女学生の制服を志向するなら軍服型になるはずです。その表れが舞鶴の女学生が一時的に着ている軍服型のツーピースだと思われます。ただこの軍服型のツーピースは女学生が着るにはあまりにも軍人的男性的すぎます。それならば大正八年には女学生の制服のセーラー服と並ぶ定番のジャンパー型スカートとブラウスでダンスをしているのですから、これを制服にすればいいはずですがそれもしていません。やはり軍隊志向に見合わないからだと思います。そして、幼子や小学生のしている色付きのスカーフのリボン結びも見合わないと思われます。また、ゼロ戦などのパイロットは必ず首に白いスカーフを巻いていますが、この白いスカーフをほとんど作っていたのは舞鶴の海軍工廠です。もともと制服そのものが集団を他と区別しきりっを守らせる軍隊志向のものなのです。ではなぜ舞鶴でそのようなことが起こっているか。それは舞鶴に洋服が伝わった経緯にあると思われまい。
当時、大正デモクラシーと呼ばれるように、都会ではどんどん洋服が取り入れられていますがあまり子供や婦人がセーラー服を着た形跡や伝わっていた形跡があまりがありません。おそらくそれを着ていたのは海軍の子供ではないかと思われまい。なぜかというと、日本の海軍は明治以来イギリス海軍を模範としています。水兵の服装もイギリスの水兵のものをアレンジしたものです。そして、当時イギリスでは婦人や子供服としてセーラー服が流行していました。それを海軍の軍人がアレンジして子供に着せていたとしても不思議はないからです。舞鶴で洋服が着られるようになったのはその海軍の家族が舞鶴の海軍の官舎に住むようになってからです。舞鶴に鉄道が通じたのさえ明治三十七年以降です。それも主目的は軍人や軍事物資を輸送するためのものです。当時舞鶴には洋装店などはありません。もちろん、都会のように子供用の洋服など売っていません。そのため、子供の洋服としてセーラー服が着られるようになったと思われます。ただ、舞鶴には民間では供給体制は整いません。とすると、それが作られていたのは海軍工廠か海軍か海軍の出入り業者によってもたらされたものと思われます。この供給体制は加佐郡立女学校のみならず地方の女学校はほとんど同じ状況かにあったと思われます。つまり、女学生のセーラー服の普及にはおそらく文部省が関与しいたと思われます。なお、このセーラー服のほうが平安女学院や福岡女学院のセーラー服よりもよほど女学生のオーソドックスなセーラー服のように見えますけれど。


この写真は昭和四年ごろのものです。


これは昭和三・四年ごろの幼子と昭和六年ごろの小学一年生です。この小学生はベレー帽をかぶっています。


この写真は昭和六年八月に写されたものです。夏服は襟にも袖にも二本の線がありません。スカートにははっきりとプリーツがあります。この服装は大正八年の運動会の正面に写っていた女学生の女の子の服装と非常に似ています。なお、後列右端の女性は数之助氏(前列右から二人目の男性)の奥さんのようで東京の人だと思われます。当時舞鶴にこのような服装はありません。なお、数之助氏は新舞鶴小学校の校歌の作詞者で、ギリシャ美術研究では著名な人物です。またこの写真は弥惣兵衛家の庭で写されたもののようですが、現在も商家だけは舞鶴市の指定文化財として残されていて舞鶴市が管理しているようです。


昭和十二年から終戦までの写真


この写真は昭和十三年ごろのものです。男の子のセーラー服はやはり二本線です。


この写真は昭和十六年ごろのもので、朝日通り六条角にあったキリスト教会の幼稚園の写真です。


これは昭和十八年の新舞鶴小学校の一年生です。セーラー服にハット帽の子が何人かいます。


終戦後から昭和三十年頃の写真


これは昭和二十六年の新舞鶴小学校の一年生です。


これは昭和二十七年の白糸中学の修学旅行です。お城は大阪城です。


これは昭和二十八年頃の東舞鶴高校の写真です。


左は東舞鶴高校の制服です。右は白糸中学校の制服です。高等学校は白三本線、中学校は白二本線で、スカーフは白ですが、リボン結びに変わっています。戦前のネクタイ結びはしていません。ただ昭和三十五年ごろには制服でなくなっていたと思います。


参考写真

一○艦上戦闘機のパイロットの服装


この写真は文子が東京の朝吹家で生活した時の十九歳の時(昭和元年)、東京で撮られたものです。この三人は朝吹家のお客様です。写真の戦闘機は、最初の航空母艦「鳳翔」ように作られた日本海軍初の国産艦上戦闘機・一0戦闘機と思われますが、この戦闘機は大正十二年十一月に採用されています。この飛行機のパイロットの上着は舞鶴の女学生の軍服型ツーピースとほとんど同じです。


京都市立第二高等女学校の服装とダンス(京都市学校歴史博物館平成26年度の企画展サイトより引用)


この左の写真の着物は舞鶴のものとよく似ていますが、右のセーラー服は舞鶴とは全く違うものです。まず、舞鶴のものは襟袖の線が二本線ですがこれは三本線です。同じ京都府でありながら、京都のものは三本線が多いようです。またスカーフの結び方もネクタイ結びではありません。福岡女学院のものは三本線ですが、ネクタイの結び方は違っています。服装自体舞鶴や福岡女学院などとはまるで違っています。この写真は昭和六年ごろと記されていますが、私立のミッションスクールと違って、セーラー服が採用されるのは昭和六年頃が多いようです。それは私立のミッションスクールと違って、公立の場合はそれぞれ違う事情があったようです。また、この写真は京都府立となっていますが、下の写真は京都市立となっています。この学校は大正十二年に校名を改称していますので、この時に市立から府立になったのではないかと思われます。加佐郡立学校もこの年に郡立から府立に、長浜女学校はその前年の大正十一年に町立から県立になっており、この時期に公立女学校は市立・郡立・町立から府県立女学校になっている学校が多いようでこれはおそらく大正九年の女学校令の改正によるものと考えられます。


このダンスオブウェーブスの服装(ブラウスにジャンパースカートや黒靴下に革靴)やダンスの仕方は大正八年ごろ加佐郡立女学校の運動会のダンスと非常によく似ています。一方で、まず円形になり、次いで二人で手をつなぐ(組む)、次いで相手が入れ替わるところなど、服装は違いますが大正五年に始まった福岡女学院のメィポールダンスの踊り方などともよく似ています。ただ、福岡女学院のようなメィポールやメイクイーンなどはおりませんが。ただ、舞鶴のような田舎で大正八年ごろブラウスを着てジャンパースカートでダンスをしているのに、福岡のような都会で小袖に袴というのは気になりますが、大正八年に始まった長崎の活水女学園のメィポールダンスの写真を見ると、確かに小袖と袴で踊っています。ただ足元は靴ですが。なお、京都の女学生の制服はもちろんセーラー服が多いようですが、ブラウスにジャンパースカートの学校も結構あるようです。

京都平安女学校のセーラー服(同上)


左の写真はワンピース型ですが日本で最初に着用された女学生のセーラー服とされるものです。ワンピース型の女学生のセーラー服は非常に珍しいものですが海軍もなく水兵もいない京都に、この服装とワンピース型のセーラー服は何処から来たのでしょうか。まずワンピース型ですが、考えられるの三つっです。まず第一は舞鶴の女学生が大正八年ごろにジャンパースカートとブラウスでダンスでダンスをしているのですから京都の女学生が同じ頃にジャンパースカートを着てダンスをしていたとしても不思議はない。つまり、この学校を含め京都の女学生の一部が既にジャンパースカートを着ていて、そのジャンパースカートからワンピース型になった。今一つはこの学校はミッションスクールですから、キリスト教修道院のシスターの服装をモデルとした。もう一つは左の夏服のセーラー服もワンピースで欧米の子供服や婦人服の主なセーラー服の服装とそっくりですから欧米のワンピース型がそのまま取り入れた。そのいずれかと思われます。また、その服装ですが、ワンピースとツーピースの違いはありますが、襟元やベルトで櫛を占める、黒い靴下革靴など舞鶴の軍服型ツーピースと非常によく似ています。帽子も舞鶴の子供が既にかぶっています。特に襟元など全く同じで舞鶴の軍服型ツーピースにスカーフを巻くとまったく同じに見えます。ただ舞鶴の軍服型ツーピスが影響するには京都府議会か文部省の影響が必要と思われますが、この学校は私学でミッションスクールです。では欧米のものかというと欧米の子供服や婦人服はもっと可愛いか女性らしいものです。なお、このの服には日本の女学生のセーラー服の基本と思われる襟元と袖の白い線がないようです。とにかく不思議なセーラー服です。


福岡女学院のセーラー服(福岡女学院の紹介サイトより引用)


この左のセーラー服も日本で着用された最初のツーピース型のセーラー服として有名なものです。この時期の写真と思われるものはユーチューブのセーラー服物語などに二人で写した写真も残っているようですが、このセーラー服には襟元にも袖口にもやはり三本線が無いようです。ただ現在のものには冬服も夏服もありますが。またリー校長の着ているセーラー服には確かに袖口に三本線があるようです。ただ゛この写真には気になるところがあります。それはこの写真が当時のものとあって、大正十年のものとなつていないことです。なぜかというと最初のものはセーラー服の下はスカートではなく袴だつたという説があることです(根拠不明)。そして、このサイトにも、最初の夏服は黒絹のネクタイだったと書かれています。ネクタイという言葉にはも現在の惰性のネクタイという意味や、ネクタイ結びという意味でも、単なる首に巻くものという意味でも用いられますからネクタイという言葉には問題ないのですが、この写真はどうもエンジ色のスカーフのリボン結びのようです。現在の夏服も冬服もエンジ色のスカーフのリボン結びです。それが、冬服のセーラー服の翌年に着用された夏服が黒絹なのかという点です。さらにもう一つ、このセーラー服は上級生を除いてほとんどの生徒が着用したといわれています。この上級生とは何を意味するのでしょうか。その意味は後述するとして、勿論ツーピース型のセーラー服を最初に着用したのは福岡女学院であることは間違いないと思いますが、服装史の通説のように、そのきっかけが、「着物に袴の和装で、体操や運動には不便で経費がかかるという声があり・・・、大正十一年(1922年)に制服とした。そして、この制服をモデルにするようになって女学生のセーラー服は全国に広がった」という説明には疑問があるのです。ミッションスクールのセーラー服の着用は、京都の平安女学校で女学校令の制定された年に、福岡女学院がその翌年、名古屋の金城学院と東京のフェリス学院が確かその更に翌年に制服として着用しています。つまり、大正九年の女学校令の改正の後次々にセーラー服を制服に採用しているのです。つまり、その原因は大正九年の女学校令の改正とその目的である大正十四年の「陸軍現役将校学校配属令」に伴う兵式体操にあつたと考えざるを得ないのです。詳しくは後述します。なお、このプログにも服装史の通説のようなことが書かれていますが、文面から見てそれは服装史の通説を引用していると思われます。

滋賀県長浜町立女学校(現、滋賀県立長浜北高等学校)のセーラー服( 長浜北高校卒業生の歴史部紹介サイトより引用http://kitakou3.pokebras.jp/e304679.html)



この学校は明治44年に長浜町立長浜実科高等女学校として開校され、女学校令の改正された大正9年に 長浜町立長浜高等女学校に改称され、大正11年に町立から滋賀県立に改称されています。丁度、京都の第二高等女学校や加佐郡立女学校が市立や郡立から府立に変わった前年です。そして、この学校は昭和5年に教育勅語渙発40周年記念式を挙行、その翌年の昭和6年 両陛下の御真影拝戴をし、同年に 制服としてセーラー服の着用がはじめていますか。その写真が上記写真ですが、このセーラー服はどう見ても福岡女学院のものではなく、舞鶴のものです。この女学校かあるところは丁度関東軍が小浜線の官○駅(現、松尾寺駅)から平の駐屯地へ行く米原の隣にあります。長浜に陸軍の駐屯地があったかどうかは知りませんが、おそらくこの学校も陸軍や舞鶴の海軍と何らかの関係があったのではないかと思われます。

以上記したことから、服装史の通説に対する疑問をまとめてみます。それは通説を否定するためではなく、それによょつて何故ミッションスクールで最初にセーラー服が制服として着用されそれがなぜ全国の女学生が着用するようになったかを説くためです。


日本の女学生のセーラー服に関する通説への疑問

服装史の通説では、そのきっかけが、「着物に袴の和装で、体操や運動には不便で経費がかかるという声があり・・・、大正十一年に制服とした。そして、この制服をモデルにするようになって女学生のセーラー服は全国に広がった」という説明されています。しかし、ここてまず問題になるのは「着物に袴の和装で、体操や運動には不便で経費がかかるという声があり・・・」と言ううちの「体操や運動」とは何なのか、という点です。当時、日本には固有の体操というようなものはなく、当然体操といえば軍隊で行われていた西洋式体操(兵式体操)しかありません。また運動の概念もしかりです。しかし、当時兵式体操は一部の中等男子校で行われていましたが、それが福岡女学院で行われていたとは考え難い。勿論福岡女学院はミッションスクールですから、兵式体操とは関係無く、既に西洋式体操を行っていたとも考えられますが、それなら何故その時に洋服が採用されなかったのか、舞鶴のような田舎の女学校でさえ大正八年にはブラウスとジャンパースカートでダンスをしているのですから、福岡のような都会であれば洋服を採用することなど簡単なはずです。それが何故わざわざセーラー服になったのか、しかも、体操着がなぜ制服でなければならないのか、まったく疑問です。普通、制服でダンスをすることがあっても、体操服を制服にすることはありません。更に、上級生は着用しないのですから、上級生は体操しなかったということになります。また「着物に袴の和装では経費がかかるという声があり・・・」とありますが、当時の写真を見る限り、小袖と袴で通学することは義務付けられていたかもしれませんが、わざわざ通学のために購入した服装とは思えません。それに対し、セーラー服はわざわざ西洋から仕入れたセージで特別に仕立てられ、スカーフも黒絹やエンジのスカーフですから、消して安いものとは思われず、それを通学のためだけに着用し、しかも、冬服と夏服二着を新たに購入するわけですから経費は節約できるどころかかさむはずです。更に「この制服をモデルにするようになって女学生のセーラー服は全国に広がった」とありますが、当時の公立の女学校は兵式体操を義務付けられるほ女学校令の対象となっていますから、福岡女学院の制服の評判がいくら良くても公立女学校の制服そう簡単にセーラー服になったとは考えられません。しかも、東京のフェリス女学院や、名古屋の金城学院が福岡女学院の翌年、舞鶴の加佐郡立所が津工傘の翌々年に着用しているわけですからあまりに普及が早すぎます。更に、京都や福岡・東京・名古屋などの都会の女学院ではセーラー服を作ることができるかもしれませんが、舞鶴に限らず地方の女学校ではそう簡単に供給体制が整わないはずです。それともう一つ、明治初期に出来た有名女学校が大正から昭和初期にセーラー服を制服として採用した記録はほとんどありません。うがった見方ですが、当時、明治初期の有名女学校にはセーラー服を制服としたくない事情があり、逆にミッションスクールの女学校にはセーラー服を制服とする必要性があったと考えるのが普通です。そして、その原因が女学校に兵式体操を義務付けることだったのではないかと考えられます。


日本の女学生のセーラー服の起源(まとめ

兵術体操は明治十九年ごろ、文部大臣森有礼の提唱によって学校に兵式体操が採用されたのですが、その本来の目的である国民の心身を発達させ資質を向上させ、国力の根幹を養い、国運を隆盛させるというのが形式に流れ、神髄が失われかけていた。ところが、1914年(大正三年)に第一次世界大戦が勃発し、その戦争の影響を受け各国で国民教練の機運が高まつていました。日本は当時日英同盟を結んでおり、また当時は中国や東南アジアへ諸島への進出をもくろんでおり、参戦を意図していました。それに対しアメリカやオーストラリアは反対でしたが、イギリスは戸惑っており、日英同盟に基づき日本に参戦を求めたり、逆の行動をとったりしていましたが、日本は日英同盟を根拠に一方的に参戦しました。ただヨーロッパ戦線に出兵するのは避けていたようです。一方、戦争は予想をはるか超える長期戦となり、大戦参加国はそれまでの常識をはるかに超える国家総力戦を強いられることとなり、日本でも一気に国民教練の機運が高まり、それまで形骸化していた中等学校への兵式体操の義務化の機運が高まり、結局、結果は大正十四年の「陸軍現役将校学校配属令」の形で実行されることになるのですが、その過程で当然女学校はどうするのかの問題が生じます。そこで二つの問題が生じます。一つは対象女学校の範囲です。それまでの女学校令では対象は基本的に都道府県立女学校で、郡立や市町村立女学校、およびミッションスクールのような私学校は対象に準ずるもので、主対象ではありません。ただ目的からいって国民全体と言う意味ではその対象としなければなりません。そのため対象九年に女学校令を改正し公立学校は府県立学校への格上げが試みられています。そして、ミッションスクールのような私学校も対象としています。今一つは、その服装です。兵式体操を行うには小袖と袴に下駄ばきではどうにもなりません。そのためには洋服化が必要ですが、単にそれだけではありません。兵式体操を義務付けるということはある意味で女学生を他と区別組織化ですから、女学生にふさわしい服装、つまり通学服の制服化です。男子学生の場合も既に陸軍将校をモデルにした詰襟の学生服を文部省は奨励していますから問題ないのですが、女学生にはそんなものはありません。そのために、女学生にふさわしい制服が模索されたと思われます。その結果が加佐郡立女学校に残った軍服型ツーピースやブラウスにジャンパースカートなどの服装だと思われます。そして、兵式体操も軍の影響力の強い加佐郡立女学校などでは現実に既に洋服で行われていた。そして、制服も軍服そのままのような軍服型ツーピースや制服らしからぬブラウスとジャンパスカートなどは避けられ、日本の水兵をモデルにした女の子のセーラー服のを制服らしくネクタイ結びにするなど女学生の制服らしくする形でセーラー服に傾いていったと思われる。その背景には、男子の制服が陸軍の将校をモデルにしていたことや、相対的に海軍も重視されるようになり、海軍の意向も強く入ったと思われる。ただ当時(大正元年から十四年)は、たった十四年間で政党政治家、陸軍・海軍軍人、外交官など九人十二回も内閣が入れ替わり、そのような軍事化の方向には様々な意見があったと思われる。そして、各女学校も様々な対応をした。まず、明治初期に開校された都道府県女学校で民政時代に設立されており、四十年余りの伝統を持ちエリート意識も強い。そのような学校は受け入れには積極的ではなく、その結果昭和初期までにはセーラー服を制服として採用しなかったためにセーラー服着用の記録がほとんどないのだと思われる。一方、政治に対し軍の意向が強くなった明治三十年ごろ以降に開校された公立女学校はさほど抵抗感はなかったと思われるが、セーラー服を制服にするには様さまな問題かあったと思われる。まず第一はセーラー服の供給体制です。二つ目は府県議会の同意です。
見つ目は女学生の父兄の同意です。そのためセーラー服の着用は多くが昭和六年以降になっています。その点加佐郡立女学校はされを積極的に進めてきた軍の影響力が強く供給も軍の工廠もしくは協力で供給もできますし、生徒の父兄も軍人か国発行質助者で軍の協力者です。そのため大正十三年三月に差いょう出来たと思われます。ただ対象十三年三月になったのは女学校令改正の前年までに入学した女学生を配慮したものと思われます。女学校令改正では学生制が四年制から五年制に伸びているためです。一方、もっともその対応に困ったのが私学校のミッションスクールだと思われます。セーラー服の採用や西洋体操を行うことにはさほど抵抗はなかったと思われますが、問題はそのセーラー服が軍服化の可能性があり、西洋式体操が兵式体操として行われることです。まして、陸軍将校をその教官として受け入れることなどとてもできなかったと思われます。と言って、もともとミッションスクールはキリスト教の布教を目的としていますから、正面切って政府の方針に反対の行動をとれば過去のように弾圧は受けないにしても、布教には大きく影響します。そこでとったのが憶測にすぎませんが、二つの方策だと思われます。まず第一は陸軍将校配属令が制定される前に西洋式体操に近いものを行ってしまうことです。大正五年の福岡女学院のメイポールダンスなどはその一環かもしれません。今ひとっはさっさと独自のセーラー服を制服にしてしまうことです。そのため、平安女学院は女学校令の改正された大正九年に、福岡女学院も大正九年に決定し十年に、フェリス女学院や金城学院も早々と採用したのではないかと思われます。うがった見方ではありますが、京都、福岡、東京、名古屋、舞鶴の別々の地域で同時多発的にセーラー服が制服化、その後せーらーふくのが全国的に女学生の制服の定番となっていくのはやはり文部省がセーラー服を女学生の制服として奨励したと考えるのが自然だと思われます。勿論、ワンピース型のセーラー服が京都の平安女学院によって、ツーピース型のセーラー服が福岡の福岡女学院によって最初に着用されたことには変わりありませんが。



参考資料

新舞鶴町の市街地図

この地図は大正六年に作成された東舞鶴町の市街地図の大正十一年の再版地図の原本と同じものを昭和四十五年頃にコピーしたものです。これと同じものは初版のものとされるものが他にも三編、再版のものとされるものも三編、少なくとも六編は残っているようですが、それらの地図はすべてカラーで原本から必要に応じて書き変えられています。たとえば、舞鶴市の所有する大正六年の初版とされるものは左上の海路図の地名が縦書きから横書きに、露西亞はソヴエート蓮邦に、支那は満州國に書き変えられています。大正六年には満州国は存在しません。国際日本文化研究センター所蔵のものはこのブログのものとほとんど同じですが、舞鶴からの海路の下に書かれていた佐世保からナホトカ近くの島への海路は残されていません。このコピーでは汚れで見えませんが、原本には佐世保から朝鮮半島や南方への海路も書かれていたのではないかと思われます。この地図を作成させたのは大正四年に赴任した名和中将で、その目的はその後の満州事変や支那事変のために関東軍や金沢の第九師団の陸軍や福知山の第十六師団所属歩兵第20連隊の兵士をを大陸に送り込むための鉄道網(右下地図)や、大陸への輸送海路(左上地図)を完成させることだったと思われます。現に、大陸にある地名は日露戦争や満州事変に関係する地名ばかりです。この地図の著作兼發行者は井上浅次郎ですが、井上浅次郎は明治二十一年五月にも加佐郡濱村(後の新舞鶴町)の地図を書いています。その前年には舞鶴港が第四海軍区鎮守府に内定され、同年には枢密院議長伊藤博文(元初代内閣総理大臣)と西郷従道海軍大臣が舞鶴港を視察しており、翌年には第四海軍区鎮守府が舞鶴に設置される事が閣議決定されています。したがって井上浅次郎は伊藤博文の視察に同行した政府の役人か海軍の事務官だと思われます。この地図は当時の戦略地図を意味し軍事上重要な内容を記しています、と同時に、日本古代史にも重要な意味を持つ記録も残しています。たとえば、白糸浜の浮島には島満神社が記されその麓には羽衣の松があり志楽川をはさんで乙姫神社があり竜宮村があります。その裏山は愛宕山(笠松山)で、その愛宕山は西国街道(現、白鳥街道)を通じて、四面山の裏山の愛宕山、西舞鶴の愛宕山(笶原山)と眞名井とにつながっています。この街道筋の神話、民話、伝説には記紀神話の原型というか、素材と思われるものが素朴な形で残っています。詳しくは述べませんが、たとえば、
なお、このサイトの陸軍官舎や町営住宅と砲兵隊の関係や・遊郭のことはこの地図によります。


名和中将の赴任写真

この写真は大正四年二月に名和中将が舞鶴鎮守府の司令長官として赴任した時に松栄舘で行われた雲城會の會合の時のもので、前列右から武内(事務官?)、一の瀬少尉、名和中将、山?軍??小監、中村技手、他は舞鶴の人間で後列左から二人目が文子の父貞蔵です。

まいづる読売の記事(昭和五十一年四月一日付)

この記事には明治二十年頃から大正十年頃のことがいろいろ記されています。本文の軍港や奥繁三郎と遊郭の関係などはこの記事から引用しています。 



エピローグ女
私は女学校や女学生の制服の研究家などではありません。ただ、文子のアルバムを見て、気になったことを書いているだけです。このプログには間違いも多々あるでしょう。ただ、当時の女学校のことを記した記録などは多くはないようで、あったとしても学校や公のもので上から目線のもです。女学生の側からのものはおそらく皆無ではないかと思います。そういう意味で、女学校や女学生の服装の研究家の方々の参考になれば幸いだと思っています。また、それぞれの学校や専門の方々から、この内容の間違いや修正をしていただければ幸いです。ではよろしくね、さようなら、バイバイ・・・ジョギング








| 小波礼行 | 舞鶴の今一つの記録遺産(文子のアルバム) | 02:47 | comments(0) | trackbacks(0) |


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