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邪馬台国問題と三角縁神獣鏡について()
邪馬台国問題と三角縁神獣鏡について()
愚かなる位置論争
  邪馬台国問題は冷静になればすでに解けていた?。

初めに、
 
 邪馬台国の位置問題に三角縁神獣鏡の問題を最初に提起したのは京大系の正統学者として、邪馬台国畿内説の立場である小林行雄の「三角縁神獣鏡の同笵関係」です。その内容は、この同笵関係の最も多いのは、椿井大塚山古墳(京都府)で、次いで湯迫車塚古墳(岡山県)です(当時)。これらの古墳は最初期の前方後円墳で、椿井大塚山古墳の被葬者から各地の王へ分与され、備前車塚古墳の被葬者へ最も多く贈られたのだろう、というのが小林行雄の見解です。そして「考古学京都学派」では、三角縁神獣鏡が、卑弥呼が中国から贈られた鏡であるという前提がありました。この小林の見解で最も重要なことは実は三角縁神獣鏡が卑弥呼に魏から贈られた鏡であるかどうかということではなく景初三年や正始元年に作成された三角縁神獣鏡が畿内から少なくとも四世紀初めまでに大量に配布されたことが重要なのですが、ただ、邪馬台国論争では京大学説(畿内説)と東大学説(九州説)の人が自説論争をおこなっていて魏からもらった舶載鏡(中国製)か日本で作られた倣製鏡かに目が行って結局は互いにわ解らないことを言い出しているのです。たとえば畿内説の人は魏から百面しか送られていない鏡(三角縁神獣鏡)が五百面以上出土しているのに対しその後の遣使でもらったのだと無責任なことを言い、九州説の人は景初四年鏡が出土しているのは倭人が景初四年のないのを知らず正始元年に間違って景初四年鏡を作ったのだと言っています。これでは九州説の人が三角縁神獣鏡は畿内で正始元年に作られて全国に配布されたと言っているようなもので、畿内大和説を応援しているようなものです。つまり、景初三年から正始元年に作られた三角縁神獣鏡が畿内から大量に配布されたことの意味など全く解っていないのです。では何故邪馬台国論争が現在このような訳の分からぬつまらぬ論争になっているのか簡単に述べてみます。

 邪馬台国論争の簡単知識
 邪馬台国論争はもともと日本にあるはずの邪馬台国が魏志に「会稽東冶の東(台湾辺り)に在る」と書かれていることから始まったのです。そしてその問題を最初に取り上げたのは新井白石で邪馬台国畿内説を論じたのです。それに対し本居宣長が九州説を唱え論争が始まったのですが何故か新井白石が九州説に転じてしまい邪馬台国論争は九州説で落ち着いたのです。ただこの頃は二人とも日本書紀が卑弥呼を神功皇后に見立てていてその頃の時代のことと考えていました。それが明治の終わりころになると卑弥呼の時代が神功皇后の時代より相対的に古くなり、東京帝国大学の白鳥庫吉は卑弥呼を天照大神ではないかと見立て、魏志倭人伝に書かれていることはその時代のことの反映だとし、一方で政治的意味もあって卑弥呼を那珂通世などの山門郡の土蜘蛛田油津姫などと同じ位置付けにし、九州説を取ったのです。そしてその根拠を魏志の「郡より女王国に至る万二千餘里」に求め邪馬台国を九州山門郡としたが、それに対し京都帝国大学の内藤湖南が畿内大和に実在した倭姫だと主張したのです。その根拠として支那の古書が方向を云うとき、東と南と相兼ね、西と北と相兼ねるのはその常例とも云うべきとしたのです。そしてそこから京大学説(畿内説)と東大学説(九州説)との激しい自説論争が始まったのです。それが現在の位置論争の始まりです。ただこの論争にはおかしなところがあります。それが何かというと、もともと邪馬台国問題は魏志の行程記事によれば日本列島にある筈の邪馬台国が日本列島の南方海上に行きつく矛盾から始まっている筈なのですが誰一人魏志の行程記事が間違っているとは言っていないのです。それに関連し三品彰英(京都帝国大学文学部史学科卒業、同志社大学教授、大阪市立博物館館長)の邪馬台国総覧に「湖南は原文を改定したのではなく、南を東に解し得る可能性を注意しているのである」と記しています。この文で注意すべきなのは「原文を改定したのではなく読み変えただけだ」で「南を東に解し得る根拠は示されていないが可能性があること言っていることです。」ということです。そして、内藤湖南の後継者たちは湖南の説をうのみにして自説を展開しているのです。つまり、「南を東に読み変える」ことは無条件に受け入れその正しさを論証しようともしないのです。これは東大学説(九州説)も同じです。どう言っているかというと、魏志倭人伝の行程記事は正しい。南と書かれている以上南である。そして魏志倭人伝の行程記事は放射線状に読むべきだと言っているのです。この放射線状に読む案を最初に提出したのは秋山謙蔵(東京帝国大学文学部国史学科を卒業、國學院大學教授)で、現在ではそれを発展させた形で榎一雄の説で定着していますが、その根拠として行程記事の語順や至と到の違いを上げているのですがこれとてもそう読める可能性があると言っているだけに過ぎないのです。つまり、これも行程記事を間違いとせず読み変えているだけだとしているのです。そしてその後継者たちもやはりそれをうのみにして自説を展開しているのです。また学会では無視されていますが一般的にファンの多い古田武彦の説も同じです。つまり誰一人として魏志倭人伝の行程記事の間違いを調べ訂正しようともしないで、正しいとして読み変えることで逃げているのです。何故そのようなことをするかと言うと、おそらく原本に忠実ではないとして論争相手のみならず身内からも批判を浴びるのを避けるために間違いだと言わずこう読みかえているだけだと逃げてているのです。しかも、これらの説はすべて原本重視としながらも一切原本にある「其の道理を計るに當に会稽東冶の東に在る可し」という記事は無視しています。触らぬ神にたたりなしなのか、臭いものにはふたをしているのか、とにかく一切触れていないのです。だいたい行程記事を書いた本人がこの行程記事によれば邪馬台国の場所は会稽東冶の東になると書いているのにそうは読まず、私のように読めば邪馬台国は九州になるとか畿内大和になるでしょうと言っているのです。馬鹿げた話です。これでは原本重視どころか原本無視です。なお、これ以上邪馬台国論争の歴史をたどっていかに矛盾したものを根拠に論争をしているか述べても時間の無駄なので本論に戻ります。

 邪馬台国論争の原点と論争の共通認識
  
 邪馬台国の位置論争はいかなる自説を持とうとも。改めて原点へ戻り互いに共通認識できる点は共通認識しその土俵の上で論争すべきです。と言ってもおそらく畿内説と九州説に共通認識などないと言われるでしょう。何故なら畿内説の人と九州説の人は犬猿の仲だからです。しかし、次のように質問したらどう答えられますか。
⑴ 邪馬台国は日本列島にあったのか無かったのかどう思いますか、正しいと思いますか?
⑵ 魏志倭人伝の行程記事は間違っていると思いますか?
⑶ 古事記や日本書紀などの日本の文献や考古学的発見などから見て邪馬台国が畿内か九州以外にあったと思いますか、九州・畿内以外にあった可能性はあると思われますか。?
⑷ 魏志倭人伝の行程に関する記事だけで邪馬台国の所在地を確定出ると思いますか、思いませんか?。
この質問に、古代史に関する文献学者・考古学者、それ以外の学識者、学者以外の邪台国研究家、一般の人アンケートを取ればいいのです。おそらくその結論は次の通りとなるでしょう。(1)に関しては、日本列島にあった。日本列島以外ではない。(2)に関しては間違っている。ただし過去の発言上間違っているといえない人がいるかもしれませんが。(3)これは一般人や古代史以外の学識者には答えかねるかもしれませんが、おそらく日本古代史に関する文献学者・考古学者及びそれ以外の古代史研究家は全くなかったとは言えないがまず可能性はないと答えるでしょう。(4)に関しては一概に言えませんが、おそらく確定できない、もしくは確定するのは難しいと答えるでしょう。その上で、(2)に関しては、間違っていないという人にその人の説のレベルがどの程度のものなのか考慮しながら、その人の説を聞けばいいのです。そしてそれを一般の人や多くの人が行程記事は間違っていないと信じるかどうかです。(4)に関しても、(2)の問題と同じで確定できるとした人の説を聞き、それを一般の人や多くの人が確定できると信じるかどうかの問題です。つまり、常識の問題です。ところで、本当に私が言いたいのは、邪馬台国問題は雑論や無駄な論争を避け共通認識できるところは共通認識をお互いにしたうえで焦点を絞って改めて議論すべきであるということです。その共通認識とは、(イ)邪馬台国は日本列島にあり、九州か畿内大和以外に存在した可能性はほとんどない。(ロ)魏志倭人伝の行程記事は間違っていて魏志倭人伝の行程記事だけでは邪馬台国の所在地を確定することは無理だということです。ではどうすればいいか。それは当然魏志倭人伝の行程記事だけでは邪馬台国の所在地を確定することは無理ということになれば他の方法で確認するより他に方法がありません。一つは小林行雄説のような日本の古代史学の知見と魏志倭人伝の記事とを対比しつつ確認するか、今一つは魏志倭人伝の行程記事で確認できなければやはり日本の古代史学の知見と魏志倭人伝の記事とを対比しつつ、畿内か九州のどちらかに邪馬台国が存在しないことを確認すればいいことです。そこでまずは最初の方法を小林行雄の説を例にとって述べていきます。

邪馬台国問題はすでに小林行雄の記した「三角縁神獣鏡の同笵関係」で解けていた?。

 小林行雄の「三角縁神獣鏡の同笵関係」の内容の要点は次の通りです。
⑴ 三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏からもらった鏡である。
⑵ その鏡は、倭王の委嘱をうけた椿井大塚山古墳の首長が各地の首長に配布した。
この二点です。この内(1)については、日本ではすでに100面しかもらっていない鏡が500面以上出土しています。そのために九州説の人は、それは魏からもらった鏡ではなく日本で作られた倣製鏡だと主張しています。それに対し畿内説の一部の人はその後も遣使しているからその時にもらったものだと言っています。しかし、そんな馬鹿なことは言うべきものではありません。少なくとも日本で出土した三角縁神獣鏡のほとんどは日本で作られた倣製鏡だと認めるべきです。しかも、出土した鏡は500面余りですがそれは確認できているだけで、多くの古墳は盗掘されている以上実際の出土数はもっと多いはずですし、しかも、まだまだ出土するでしょう。何故なら、今まで出土した古墳よりも多く出土する可能性のある古墳がまだ発屈されていないためです。その古墳とは宮内庁管理の墳墓です。ただ出土した三角縁神獣鏡がすべて日本で作られた倣製鏡だとは言えません。中には魏からもらったものがあるかもしれませんがそれを証明することは難しいでしょう。ただ重要なのは(2)の問題と相まって、それが何時作られ何時配布され何処でどの程度出土したかです。まず出土地ですが奈良県の100枚、京都府の66枚、福岡県と兵庫県の40枚余り大阪府の38枚、吉備国で28枚余りとされています。ただ、この枚数は宮内庁管理の墳墓が発掘されれば吉備でこの倍あまり、奈良県で倍以上になる可能性があり、また京都府の椿井大塚山古墳のものを奈良県側で計算しますと奈良県が圧倒的に多いのです。次に作られた時期ですが畿内説の人では当然景初三年から正始元年、九州説の人では森浩一のように特定の例外の人はいますが、ほとんどの人は制作の開始は景初三年から正始元年としています。なぜなら、中国にない年号の景初四年鏡は日本で正始元年に作られたものだとしているからです。次に配布時期ですが、仮に前方後円墳の成立が四世紀はじめとしても配布された人が配布されてすぐ死ぬわけではありませんから少なくとも三世紀末、早ければ三世紀中頃には配布され始めたられたとするべきでしょう。また、現在では前方後円墳は三世紀中頃には作られたと言う説がありその説に従えばほとんど作られてすぐに配布され始めたということになります。
次に(2)ついてですが、まず問題は京都府の椿井大塚山古墳の首長が配布した側なのか配布された側なのかです。何故かというと一つには椿井大塚山古墳の首長が小林の言う通り、倭王の委嘱をうけて配布したのなら倭王に対し独立性が高いのですが、配布されたのであれば従属性が高いのです。もっと極端に言えば倭王の臣下だった可能性もあるのです。それは備前車塚の被葬者にも絡む問題です。ただそれはここではさほど重要な問題ではないので改めて記します。それよりも(2)に関し重要なのは(1)との関係も含めて正始元年(240)頃に畿内大和にあった王権がどのような存在だったかということです。もちろん魏志を読む限り後の大和朝廷のような九州から関東までを統一するような王権ではなかったことは確かです。ただ、関東地方や九州中南部は別として少なくとも正始元年(240)から三世紀中頃もしくは末には北部九州から吉備地方に至るまで三角縁神獣鏡を配布する能力のあった王権であったことも確かです。その間長くて五十年短ければ二・三十年です。そこに絞って議論をすればおのずと結論は出てくると思います。詳しくは別途記します。ただこのような議論をすることが今必要なことであって、三角縁神獣鏡が舶載鏡(中国製)か日本で作られた倣製鏡かなどは、今はどちらでもいいことなのです。

 今一つの邪馬台国の所在地の確認方法
 今一つの方法とは、邪馬台国が九州か畿内大和のどちらかにあったという共通認識のもとにそのどちらかに無かったことを証明する方法です。そして、その方法の基本となるのが魏略の次の記事です。なお、本稿以降は魏志倭人伝の文は参考にしますが、基本的にはその元である魏略の逸文によって記します。
女王の南、又、狗奴国有り。男子を以て王と為す。その官拘右智卑狗と曰く。女王に属さず也。
倭は帯方東南大海の中に在り。(女王の東?)、海を度る千里復国有り、皆倭種。注、()内の女王の東は逸文には残っていないが、この文の復は,諒犬遼瑤鮗けており、,砲茲辰峠王の東とした。
倭の南に侏儒国有り。その人長三四尺、女王国を去る四千余里。
この記事で重要なのは女王の東には倭種の国が有り倭の南には倭種と異なる侏儒(小人)の国が有るとなっていることです。注、この文の女王の東は邪馬台国の東を指すのか女王のテリトリーの東を指すのかは不明。
これに関連するものとして、日本書紀と風土記に次の記事があります。
高尾張邑(畿内大和の葛城)に土蜘蛛(赤銅の八十梟帥)有り。その人と為り身短くして手足長し侏儒と相似たり。(神武紀)
値嘉郷(九州の五島列島)、第一の嶋小近の島には土蜘蛛大耳居み、第二の嶋大近の島には土蜘蛛垂耳居む。此の嶋の白水郎は、容貌、隼人に似て、恆に騎射を好み、其の言語は俗人(倭種?)に異なる。『肥前国風土記』
土知朱(土蜘蛛)等力を合わせ防御。且つ津軽の蝦夷と謀り、許多く猪鹿弓・猪鹿矢を石城に連ね張り、官兵を射る。『陸奥国風土記』

この日本書紀や風土記に記された土蜘蛛は大和朝廷に恭順しなかった在地の土豪でその後に平定され服属した人々の集団ですが、上記の文によれば「身短くして手足長し侏儒と相似たり」・「容貌、隼人に似て、恆に騎射を好み、其の言語は俗人(倭種?)に異なる」とあり、一応、隼人や蝦夷とは区別され、倭人・倭種とも区別され、言語は倭人・倭種とは異なるとされています。この土蜘蛛とされる集団は筑前には記されていませんが、東北の陸奥から九州の日向に至るまで日本の各地にいることが記され、邪馬台国の畿内説の比定地の畿内大和の添や葛城の首長もかっては土蜘蛛であったことが記され、磯城の首長八十梟帥(兄磯城・弟磯城)も土蜘蛛だったと思われます。また九州説の比定地筑後の山門郡や宇佐(の川上)の首長も土蜘蛛です。従って、邪馬台国を比定するには邪馬台国の王権の首長(卑弥呼)が土蜘蛛の首長なの倭人・倭種の首長なのか、また、土蜘蛛は縄文人に、倭人は弥生人に似た所があります。従って、土蜘蛛とはどんな人種・民族なのか、その言語の特徴は倭人・倭種、もしくは大和民族とどう異なるのか、などを調べ、邪馬台国の首長を土蜘蛛の首長とした場合と、倭人・倭種の首長とした場合とに分け、邪馬台国を畿内大和(磯城)や九州の山門郡や宇佐郡に比定した場合、日本古代史全体の流れの中で成り立つのかを一つ一つ検証していくのがこの方法です。つまり、現在のように結論を先に決めて議論するのではなく、解らないものは解らないとして解らないことを解ろうとして決論を導くため行うのがこの方法の目的です。勿論それによってすぐに決論が出るか出ないかは解りません。ただ何が解れば結論が出せるかが解る筈です。そして、なにを研究すればいいかだけは解る筈です。今のように味噌も糞もごっちゃにして鶏が先か卵が先かのような議論をしていたのでは何時までたっても邪馬台国の所在地などは比定できないでしょう。ところでこの方法で邪馬台国の所在地を検討するには卑弥呼が魏に遣使した時代(三世紀初め)に日本列島、特に畿内大和や九州の何処にどのような人々が住み、どのような人間がいて、どのような言語を話し、どのような文化を持ち、どのような組織体であったかということと、それが後漢書や魏志や魏略に記された倭人や狗奴国、侏儒国の人間と一致するかを調べることか必要です。ただそれには日本人の起源や日本語の起源、その他日本の古代史の重要な問題に関すること、また、中国人の倭人や狗奴国、侏儒国に対しどの時代どのような認識を持っていたかを知ることがまず必要です。ただ、それは厳密な意味ではなく大雑把であっても大きな流れが解れば十分です。従って、次稿以降は一旦本稿を外れ邪馬台国問題から見た日本古代史総概念論を記します。なお、私は薄識であって学者のように博識でも専門家でもありません。従って、いたって内容は幼稚なものです。ただ叩き台になればいいだけと思っています。間違っていれば専門家が指摘するでしょうし、無視するかもしれません。それでいいのです。いずれすぐに議論せざるを得ぬ時期が来る筈ですか
| 小波礼行 | 源辿の日朝古代史 | 00:32 | comments(0) | trackbacks(0) |

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